「ありがとうございましたー。」



半ば反射的に挨拶を口にしながら、遅い昼ご飯を終えた客を見送る。

これから夕食時までは少し暇になるかと思い、
私は肩の力を抜いて机を丁寧に拭き直した。

それなりに繁盛している中華飯店。
少しでも綺麗にしておいた方がいい。


こんな時は、あの人、が来るのだから。







ちりりん。
来客を告げるベルが鳴る。


木の床を軋ませる固いブーツの重さと、ちゃ、ちゃ、と揺れるいつものあの音が、
私の真後ろを通り過ぎていくのに、私はふきんを握り締めて固まっていた。


カウンターの向こうで、紗夢がうげ、と呻いたのが聞こえる。


対して彼は、

毎度のように、ちゃ、ちゃ、とあの音…懐から取り出したソロバンの数珠の音…を軽やかに響かせて、
カウンターに肘を預けた。




「紗夢の姐さん、儲かりまっか?」




耳に心地良い、あのイントネーションが聞こえる。


「ぼちぼちアル。」


半ば諦めたように答えた彼女は、
いつものように店の奥へと彼を促した。





彼の名前は知らない。





柔らかそうな金の髪に、
鮮やかな碧海を瞳に宿す、流れ商人だ。


甘いチョコレート菓子のような色の服は、
色こそ違うものの聖騎士団のそれにも見えるので、
紗夢が商売仲間だと説明してくれた時にはひどく驚いた。

…とはいっても、田舎から出て来たばかりの私には、
騎士団だとかなんて、噂に聞いたことしかないのだけれど。




「毎度ありー。」


上機嫌な彼の声と共に、店の奥の扉が開く。
商談は終わったのか、彼の手に握られた小袋からはちゃりちゃりと貨幣の音がした。


「ついでに新作メニュー食べて行くヨロシ。」

良い商談が出来たのか、弾んだ声で紗夢が彼に空いている席を勧めたけれど、
彼はひらひらと手を振って口を開く。
(白くてきれいな指が見えた。)


「勘忍な。この後、待ち合わせしてんねん。」


また今度馳走したって、と続けた彼に、
紗夢は思い当たる事があったのか、すぐに頷いた。


「アイツもたまにはうちの店寄って欲しいアル。」


軽く膨れてエプロンを付け直した紗夢に、彼はけらけらと笑う。
少し、楽しそうな声だと、思った。


「結構前連れて来た時、新作やー言うて、変なもん食わせたやろ?もう絶対行かへん、て、」


言うとった、と続けた彼が、
くすくすと身体を揺らす。

微かにソロバンの数珠の音が聞こえた。


「あれはちょっとした悪戯アル!その後ちゃんとご馳走したネ。」


そんなことで怒るなんて器の小さい男アル、と包丁を光らせる紗夢に、
彼はやはり笑って、

今度連れてくる、と、告げた。




微かに開いたその口端がいつものように皮肉気に攣り上がって、
その碧の海に長い睫毛の影が下りたから、
私は思わず息を飲んでしまったんだけれど、
まるでその音が聞こえたみたいに、


彼、が、私、を、見た。





「ほな、また来るわ。」





ひらりと翻る紅く焼けた葉の色の上着が、

きしきしと木の床を軋ませて扉へ向かう。


隣で紗夢が挨拶の言葉を口にしていたような気もするけれど聞こえなかった。


ちりりん、と客の帰りを告げるドアベルが鳴って、
夕闇に染まった冬の空気にふわふわと金の髪が溶けていく。


私は、

お決まりの「有り難う御座いました」の単語すら忘れて、

ただ、立ち尽くしていた。



一瞬。



ただ一瞬、私の眼前に広がった、

その深い、碧い海、が、ゆるりと笑んだその鮮烈な風景を、

私は一生忘れることは出来ないのだろう、と。



それだけが、頭の中を回って、いた。























「…遅ぇんだよ。」

薄暗い闇の中で、赤銅色の瞳が睨む。

「美人サン回りは時間掛かるんやもん。怒らんといて、ハニーv」


茶化すような俺の声に、二つの赤銅は細く引き絞られて、その眉間に大きく皺を刻んだ。

いつも通りのその反応に思わず笑いを零すと、
彼はげんなりと溜め息を吐く。


いつものことだ。


「あ、紗夢姐さんが、今度店に来い言うとったで。」

「中華は口に合わねえ。」


どちらともなく歩調を合わせながら、夜に染まりかけの街を進む。
グローブから突き出た指先が、少しだけ冷たい。

隣で仏頂面をした彼は、その焦げ茶の髪を揺らしながらポケットに両手を突っ込んでいる。


その少しの猫背すらおかしくて、
俺は込み上げる笑いをなんとか飲み込んで、くつくつと喉を鳴らした。




「あの店なあ、俺のファンがおんねん。」

「・・・はあ?」




何の冗談だ、と言った顔で(彼の表情はとても解り易い)、
彼が足まで止めてこちらを見たので、
思わず口元が緩んだ。


「最近こっち出稼ぎに来た娘らしいわ。肩くらいまで伸ばした黒髪のな、結構かわええオンナノコ。」


にんまりと笑って振り返ると、
彼は呆然とした顔で、

だが、すぐに止めていた足を動かし始めた。



「下らね。」



俺をすぐに追い越して、零した声は小さい。
代わりに、
がつがつと踏み鳴らされたブーツの音が大きく響いた。


俺はまた笑う。



「あー、妬いとるんやろー?」

「妬いてねえ。」

「絶対妬いとる。」

「妬・い・て・ね・え。」

「顔に書いてあるで。」

「んなわけねえだろ!」



ビシリッと音でも立ちそうな勢いで叩き出されたその手首(ツッコミ)に、

彼が呆然とこちらを見、
俺はにんまりとそちらを見。



「ええツッコミやなあ。その手首のスナップは素人には出来へん。」


せっかく最高の賛辞を送っているというのに、
何故かがっくりと肩を落としてしまった彼は、
ぶるぶると震えながらこちらを射殺すほどの目で睨む。


「…ぜってー泣かす…。」

「啼かす?やーんハニーてば、大胆発言やわ〜。」

「お前、もう、帰れ。」


心底諦めたように、彼がそう言って。







二つの靴音がいつの間にかおんなじリズムを刻み始めて
ひゅるひゅると風が歌いながら通り過ぎていって
裾の長い上着を脚にまとわりつかせていく。

何処かから夕餉が香った。







「そんなわけで、夕飯はハニーの奢りやでー。」

「お前今日稼いできたんじゃねーのかよ。」

「それは俺の金やもん。ハニーの金は俺に奢る為にあるんやろ?」

「んな訳ねえだろ!どーせその金だってまたカイの隠し撮り売り捌いた金じゃねーか。」

「ちゃうもん。今回は、黒兄弟もセットやで。」

「尚悪いだろが!!」




怒鳴りながらも彼のその足は、行き着けのレストランへと進路変更。

いい加減俺を甘やかすのをやめればいいのに。

そうでないと何処までも何処までもコイツに甘えてしまって
もしかしたら自分は
愛されているかもしれないなんて誤解してしまうではないか・・・!
しかしそれすらも心地良い気さえしている自分はついに頭がおかしくなってしまったに違いない
だってこれはまるで初恋か何かのようだろう冗談じゃない反吐が出る。

今の自分は酷く酷く酷く滑稽だ。









その赤銅色の目が俺を向いて言った。




「何がおかしいんだよ。」

「んー、ナイショ。」




くすくすと答えた俺に、
彼は軽く肩をすくめて空を仰いだ。
気付いているのか、いないのか。
そんな事は下らない。
今、そしてこれから。
彼がこうして隣に居てくれるのならば、それで、いいんだ。
















今日も俺は、緩むこの口元を、止められない、で、いる。















 01,一期一会。

〜04,12,27


彼らが今、一緒に歩いて一緒に飯を食べていることその全て、も、いちごいちえ、の瞬間で、あります。 


<<閉>>