「久しいな。」



呟いた音は、白く昇ってすぐ消えた。
深い鼠色の空には月は無く、代わりにひらひらと注ぐ雪が、満ちた杯に音も無く溶ける。


無音の夜は、恐ろしい。



「そうですね。我々二人での雪見酒など、本当に久しぶりだ。」


静かに言った隣の男は、この無音を壊さないようにそっと杯を傾けた。
それに倣うように杯に口を付ければ、
じわじわと喉に沁みる熱が、周りの雪まで溶かしそうな気がしたけれど、
すぐにそれは降り止む事の無い雪たちに抑え込まれて、鎮火する。


唐突に、
すうと何よりも速く視線をそこに向けたのは、隣に座る、竜の右眼。


冬の空気より鋭利なそれに、斬り刻まれた可哀相な梅の木は、
夜の闇に溶けまいと必死に紅く色付いた枝を揺らして、ばさりと雪を落とした。

再び静寂に戻った闇をそれでも睨み、
それが確実に杞憂であると悟ると、彼はようやく視線を杯に戻した。



「何もおらん。」



顔も上げずにそう言えば、隣の彼が僅かに強張る気配。


「…鬼庭殿がそうおっしゃるのならば、そうなのでしょう、しかし…―」


その言葉がぷつりと途切れ、しんしんと雪の降る音だけが響く。


無音の世界に潜む音。
心音。雪。骨の軋み。枝と雪の触れ合う。筋肉の収縮。瞬き。息。髪の揺れる音。床の木々の呼吸。獣の足音。
俺はただ、それに耳を傾けるだけ。

この城以外の何者かが、足を踏み入れたのなら、すぐに分かる。
例えどんなに優秀な忍でも。
(気配の有無の問題では無い。と俺は思っている。)


しかし、
成実はそんなの聞こえねぇと言い、
景綱はさすがですと目を伏せ、
姉上は当然ねと微笑み、

殿はただ、
満足そうに口端を吊り上げる。



戦場も同じ。
恐ろしいほどに無音の世界。
俺はただ、それを切り捨てるだけ。



「疑っていた訳ではないのです、ただ…、」

緊張している、ようです…、
小さく言った彼は、長い溜息と共に苦笑した。

、余計な事でした…、

そうして頭を下げる生真面目な男に、悪い事ではない、と返すと、
彼は顔を上げて、やはり硬いその目のままで苦笑した。


「明日は荒れよう、」


呟いた俺の言葉に、彼は答える代わりに前を向く。
明日、奥州の覇権が決まる。そういっても過言では無いであろう、其の相手。

しかし、これは全ての始まりだ。
相手がどんなに強大であろうとも、我々は立ち止まってはならない。



「景綱、余所見をしている暇なぞないだろう。」

「無論…!」



心外だといわんばかりに尚も言い募ろうとする彼を、視線で押し止めて。
雪の重さに耐え切れず、咲き誇った姿のまま地に落とされて、
それでも白い海に沈むまいと、必死にあがく小さな紅梅の姿は、美しい。



無音の世界。

前方さえ何も無く、見据える場所さえ探してしまう恐ろしい世界。

その中で、誰もが背後を取り合って、神経を削り合っているのなら。



                       
しんがり
「お前達は、前さえ見据えていれば良い。殿には、俺が居る。」




少しの間、目を見開いていた彼が、
ゆるりと笑う。


「本当に久しい。鬼庭殿がこのように饒舌な日は…。」

「…少し、酔った。」


呟いて僅かに視線を伏せると、高く結った自分の髪がするすると肩から滑って、
隣の男は可笑しそうに笑った。
肩を揺らしくつくつと笑うその景色の方が珍しいと、軽く睨めば、
彼は笑いをするりと飲み込んで、そろそろ休みましょう、と杯を置いた。

月は見えない。
我々からそれを覆い隠す厚い雲は、正に無音の権化の様。



鮮やかな雪よ散りたまえ。
明日、汚れ朽ち果てる大地を覆い、つかの間の清浄を与えよ。


喩え、どのような者が敵であろうとも、
この鼻の奥を刺す冬の空気さえ触れさせぬほどに、
俺は、硬い硬い、鱗となろう。


そうして、壁になり盾になり鎧になりて、








彼の方を、彼等を、護らんと。








どうせ散るのなら。
鬼庭綱元。
竜の鱗。

〜06,12,22