誰かに呼ばれた気がして目が覚める。
ぱ、と上体を起こして辺りを見回すが、
そこには見慣れた自分の部屋の景色しかおらず、
勿論、誰の気配も無い。
だが、誰かに呼ばれたのだ。
それは、見知った、とても近しいひとだった、気がする。
蹴散らした布団をもう一度被って、目をつぶる。
いつもなら瞼を閉じていくその間にも訪れるまどろみが、
今日に限っては、手招きさえしていない、
だれ?だれが、おれを起こした?
布団からはみ出ていた腕を引っ込めて、
暖めるように擦るそれに残る、僅かな、感触、
…まるで、その誰かに、つかまれた、ような…、
気付くと俺は、布団を跳ね除けて立ち上がっていた。
勢いよくあけた襖は、肌をすぱすぱ切るような冬の空気を、盛大に部屋に流し込んできたけれど、
おれはそれを必死で掻き分けて、
氷の上みたいに冷え切った廊下を、足袋を履くのも忘れて泳ぎ始める。
段々と活気付き始める城内の空気を感じながら、
一直線に向かうのは、彼の寝室。
きっともう、起きているであろう彼の部屋は、
この城の一番上の、一番奥の、一番上等な、要するに一番えらい部屋である。
だから俺は、その部屋の前で、
礼儀正しく、のっくをして、声をかけた。
「まーさーむーねー。とーのー。まーちゃーん?」
…返事は無い。
「ぼんぼんぼんちゃーん、あーさですよー、ぐもーにーん。」
いつもだったらこの辺りで、
書やら文鎮やら花瓶やら(とりあえず近くにあった物)が、
障子をぶち破って飛んでくるところなのだが。
防御体勢のまま固まっていても、返事はやはり無かった。
けれど、
部屋の奥に在るのは、間違えるはずのない彼の気配。
…珍しいなと思いつつ、そっと戸を引く。
僅かに開けた隙間から中を覗けば、
まだ明かりの入っていない部屋からは、
微かに残る暖のにおいと、
それからも逃げようとするような、ちいさな、ちいさな、彼の寝息。
おれは、それを乱さないように、
そっと部屋に足を踏み入れると、ぴたりと柱に背をはりつけたまま、
やっぱりそうっと、後ろ手に襖を引いた。
そうして彼の方へと進もうとすると、
突然、ぴ、と袖を何者かに引かれて、
おれは弾かれたように振り向いたのだけど。
主の寝所に立ち入ったおれを、咎めるようにこちらの裾を引いていたのは、
今まで俺が背を預けていた柱に走る、何本もの傷跡だった。
おれがほっと息をつきながら屈み込んだ目線の辺りから、
競い合うように柱を昇り始めるその横線たちは、
最後は、ちょうどおれの顎の辺りで終わっていて。
未だこの傷跡のように鮮やかに蘇るのは、
おれと、かれが、並んでこの柱に頭を預け、
こじゅうろうと、つなもとが、短刀で同時に痕を刻み、
流れる月日と共に繰り返す、その光景。
背比べした、おれたちの、痕。
「…昔は、おれんが背でかかったのになー。」
細かい年月までは覚えていないけれど、
こじゅうろうが柱につけた小刀の痕が、
こちらより、初めて上にいったその時の、かれのはしゃぎっぷりは、忘れられない。
そして、
その痕が、小さく並んだそんな傷が、
当時の自分をどれほど打ちのめしたものか、忘れてはいない。
かれの名前は「藤次郎」。
おれの名前は「藤五郎」。
同じ伊達の字を受けながら、
俺達の生まれた場所は、大きく違っていた。
それは、
いまでもかれが、一番気に病んでいて一番誇りに思っていてくれていることで、
そしてそのことをおれはずっと、
ぶん殴ってやりたいほどいやだと思い、泣いてしまいたくなるほどうれしいと思っている。
きた姉や、こじゅうろうや、つなもとみたいに、
おれはあたまを使って、まさむねの助けにはなれないから、
だったら、他んとこは、ぜんぶぜんぶ、助けになりたいと、思っていたのに。
きし、きし、と、朝の空気を含んだ畳みが、足の裏に吸い付く感触。
岩のような布団の塊に数歩近寄れば、
僅かにそれが呼吸するように動いているのが見えて、おれはほっと息を吐いた。
剣の稽古で、俺がいっつも負けるようになったのは、いつからだっけ。
(床に吹っ飛んだおれを助け起こしてくれるまさむねは、いつもすんげー不機嫌で、
周りのみんながいっぱい褒めてんのが聞こえてないみたいに、
おれを睨んで、…次こそ、本気でやれ、って呟く。)
枕元に置かれた眼帯にさえ、睨まれていたけれど、
きっとまさむねには言えないから、
おれは、深く身体に入り込んだ空気を吐き出しながら、
そっと膝を折った。
すうと白く立ち上ったおれの息が、思ったより部屋に響いて、
それでもかれの寝息は、乱れることなく満ちていて、
おれはなんだかこの部屋が、大仏さまの腹ん中みたいな気さえする。
だから、
寝息にそって音も無き、 合掌 。
稽古のとき、ここってとこで力抜いてごめん。
だって、筆頭はいちばんつよくなきゃ駄目なんだ。
そう言い訳して、ほんとは本気でやって、負けるの怖いんだ、おれの、意味、なくなりそでこわいんだ、ごめん。
背比べのとき、ほんのちょっと背伸びしてごめん。
だって、まさむねより大きくないと、おれ、戦に連れてってもらえないじゃん。
そんな狡いことしてないと、おれ認めてもらえないんだよ、ごめん。
だから、びっくりしたんだ。
背、誤魔化せないほど、抜かれたとき。
流れ弾が当たったときより、
骨折られちゃったときより、
しにそうな傷負ったときより、
何よりもびっくりして、何よりも痛いと思ったんだ。
布団に埋もれた黒髪を、そっと探って、
薄い朝日の中で浮かび上がるのは、おぞましい右目。
「、まさむね、も…、いたかった、?」
囁いた音は、うなされているらしい、彼の不規則な寝息に紛れて消えた。
一体どんな夢を見ているのか、
薄く汗の浮かんだ額には、いつも以上に深い眉間の皺と、大きく寄せられた眉。
おれは、思わずおんなじような顔をしてしまっていて、
慌てて自分の眉間の皺を引き伸ばすと
(じゃないと、将来こじゅうろうみたいになりますよ、ってきた姉がいってた!)
まさむねを布団ごと、ゆさゆさと揺り起こした。
「まさむね!起きないとこじゅうろうになっちまうぞー。」
「…ぅ、」
「まさむねー?それ以上顔しかめたら駄目だって!はげちまうんだぞ!」
「……ぐ、…、」
「起きろって!ま・さ・む・ね!!!…あーもーなんだよバーカバーカ!そんなんだと、いたずらすんぞー?!!」
「………、……、」
「…ちんもくは、こうていとみなしマス。」
朝から悪戯許可を直々に殿より頂いたおれは、
遠慮も容赦もなくかれの布団をめくりあげ、その中に潜り込んだ。
ひたひたと、
濡れた何かが身体を嘗め回すような、感触。
なぞられた其処から冷えた空気が染みこんで寒いのに、
その何かは、知らぬ顔で、人の身体を這い回る。
淀んだ黒を、べたべたと白で塗り替えるようなそれに、
意識が現実へと引かれていくのを感じながら、
俺は、震えた瞼に、確かな朝の気配を見ていた。
「…、ん、っ、ぁ、?」
「げ。」
予想以上の至近距離から聞こえたその声に、
俺の意識は一気に浮上し、
瞼をこじあけたの、だが。
「………てめぇ何やってやがる。」
「、ぐ、ぐもーにん、まさむねv」
でへへ、と笑いながら、
俺の上に馬乗りになった成実の頬には、冷や汗が一筋きらりと光る。
そしてその左手に握られたのは、今まさに手をかけたらしいこちらの帯と、
右手には、瑞々しい墨がたっぷりと染み込んだ、筆。
(そして、その黒い轍がくっきりと走る、俺の肌。)
「What a good morning it is today ! You are a very very GOOD BOY ★☆★」
「いででででだだだだちょまさむねしぬしぬしぬマジしぬごめんなさぁあーーーい!!!!!」
※暫く御待ち下さい。
「いやーまゆげつなげてやろうかと思ってさー。」
赤く腫れた頬やら後頭部やらを擦りながらのその言葉を一睨み。
成実は、…う、と呻いて視線を彷徨わせたあと、
ぶっすりと不貞腐れたように頬を膨らませた。(面白ぇ顔、)
「なんか、すげーうなされてて、眉毛くっつきそうだったからさー。」
こじゅーろうになるとこだったんだぜー?、と言いながら、
ぐいと指で眉間に皺を作って見せられて、
確かにそれは嫌だなと思ったのだが。
(そして空いた手で前髪をばっさりと後ろに引っ張り上げて額まで出す必要は無いだろうな、とも思う。)
(見られたら小十郎に殺されんぞ…。)
ふと、未だにじわりと寝汗の滲んだ掌を握り込む。
「…嫌な夢を見た、気がする、」
呟いた声は、思いの外掠れていた。
冷えた朝の空気が喉を刺す。
「気?」
「…あー、」
ぱっと振り返って聞き返した彼の顔に、
寝起きと共に反撃した際の墨がべったりとついていたのに気付いて、
俺は笑いを飲み込みながら生返事をして、そして、
、ああ、この下らない朝、容赦の無い冷えた空気、木を軋ませる人の足音、奥州という国。
てのひらは、もう乾いていた。
一体、なんの、ゆめ、だったの、か。
「てめぇのせいで忘れちまった。」
言った俺に、彼はでへりと締まりの無い顔で、笑う。
「よかったーまさむねが嫌なゆめ忘れてよかったー。」
「おまえ、本当に、ばか、だよ。」
「あったりまえじゃん。だって、まさむねがばかなんだもん。」
溜息交じりに呟いた俺にけろりとそう言って、
がははと笑った彼が布団だか畳だかにダイブしようとしたのか、
そのままぐらりと後ろに倒れこんで…、(しかしそっちは、床の間…、)
「おい、後ろ、」
びりりー、がしゃん、ぱりん。
「「・・・・・・。」」
壁に半分しか残っていない掛け軸と、
頭に花を生けて押し潰された花瓶と、
どっかの国から貰った気がする結構な壺の破片と。
そんなものに塗れて、
それでもやはり、彼は、でへりと笑ってみせた。
(頬に光るのは、花瓶の水か、冷や汗か。)
「え、えへ、めんごv」
俺は、大きく大きく、爽やかな朝の空気を肺に満たした。
かれがかれであるかぎり、
おれたちはあるきつづけていくんだよ。
(ああ、だからね、まさむね、だから・・・、 )
なんて、つよく おろかで あったかい 、馬鹿の寄せ集め。
〜07,06,07