人間としての最初の女、パンドラは、
-すべてを与えられたもの- の名の通り、
全知全能の神、ゼウスに創られ、
下界に降りる際、神々から祝福の贈りものを与えられた。
知恵を、美貌を、魅力を、美しい歌声を、好奇心を。
そして、開けてはいけない、という言葉と共に、美しい匣、を。
しかし、ある時、
彼女は好奇心に駆られて、匣を開けてしまう。
その途端、中に閉じ込められていた、
ありとあらゆる“災い”が、この世に飛び出してしまった。
自分のした事の重大さに、嘆き悲しむ彼女の目にとまった、
たったひとつだけ、残ったもの。
それは、
希望とも、絶望とも、いわれている。
「何か、御用ですか?」
静かに掛けられた声に、
潜めていた息を吐いて、足を動かす。
蛍光灯の下に足を踏み入れると、
彼が、自室の扉の前で、肩越しにこちらを見た。
「気配を殺して後をつけるだなんて、趣味が良いとは言えませんよ。」
「貴方こそ。それに気付いていながら、ここまで黙っていた。」
良い性格だ。
こちらの言葉に、彼はいつもの皮肉な笑みで、肩をすくめる。
「…、何か、御用ですか?」
彼は、先程の台詞をそっくり繰り返して、
今度こそこちらを振り向いた。
それは彼の部屋への扉を背に隠すようにも見えた。
薄暗い廊下には我々以外に人の気配は無く、
時折、じじ、と蛍光灯が呻くだけだ。
私は軽く息を吸う。
「貴方が、嘘を吐いている事は知っている。」
彼の表情は、変わらない。
私は、一歩、前へと足を踏み出した。
「上の連中は騙せるだろう。」
もう一歩踏み出した足音は、廊下の闇に吸われるように響いていく。
私はただ、
こちらを見ている、面白そうに煌く紫を睨みつけた。
「此処の人間も、貴方を天才と崇めている連中なんて、もっと簡単に。」
彼が、眼鏡のブリッジを押し上げながら口を開く。
少し笑った音が、聞こえた。
「何が、仰りたいのか、解りかねますが。」
「貳号機に接触したそうだな。」
眼鏡から離れた手が、止まる。
「貴方はもう、“博士”ではない。ただの“一研究員”だ。」
私の許可無く、貳号機に接触出来る程の、地位にもいない。
その言葉に、
彼の目がすうと細められた。
それは、こちらの首筋にナイフを押し当てるかのような視線だ。
だが、私は更に足を進めた。
「今は、私が“博士”なのだから。」
くつくつ、
そう喉の奥で笑う音は、彼の肩を揺らして闇に溶ける。
「やれやれ。」
言いながら彼は顔を上げた。
いつもの皮肉めいたトーンはそのままに。
だが、
「親が子供に会うのに、他人の許可が必要ですか?」
おかしな話だ。
そう、続けられた、その顔は、
その黒髪が、顔にかかった影が、
白衣から伸びる影が、廊下の私の両側に埋もれた闇たちが、
そして、その中心で私の首にあてられた紫の刃が、私の首に食い込んで、
全てが黒い手を伸ばし足元から私を喰らい尽くしていく感触・・・!
私は、無意識に半歩後ろに退っていた。
びりびりと音を立てそうなほどの殺気。
だが、ここで負けてはならないのだ!
私は、銃を構える。
「貴方が、マザーデータのコピーを隠している事は知っている…!」
大声で叫んでしまったように思ったその声は、
潰れたような肺から漏れ出ただけで、 押し殺したような音に変わっていた。
だが、結果、彼にだけ聞こえたのだから、
余計な混乱を招かなくてすんだのかもわからない。
けれど今の私には、奴の視線を睨み返して、
酸素を自分の肺に送り込む事しか考えていられなかった。
見た目より重い金属の塊を握る手は震え、
銃口も微かに揺れていたけれど、
だがそれは、確かに奴の頭へと向いている。
紫のその目が、軽く驚いたような、(だがやはり面白がっているような、)
そんな様に見開かれた。
「おやおや、随分と物騒ですね。そんな物まで持ち出すなんて。」
「話を逸らすな、!」
口を噤んだ彼は、肩を竦めてみせる。
私は、銃を構え直して、続けた。
「貳号機の核にも、ロックなんて掛けて、」
その言葉に彼が、微かに口端を吊り上げる。
それがまるで、最初から私が貳号機の核へ侵入しようとしていたのが、分かっていたようで、
そして、自分がそれを阻止出来ない地位に、降格してしまう事さえも、分かっていたようで…!
私は、更なる戦慄が背中を駆け抜けた事に、唇を噛んだ。
「あれの感情中枢には波が有り過ぎる!
壱号機の回収を命じたが…、あやうく破壊するところだったんだぞ!!」
オリジナルにまで刃を向けた、
その言葉に、
彼が、ほう、と興味深そうに頷く。
私は、
愉しんでさえいるようなその口調に、言葉を失ってしまった。
これが、どんな状況か、この男はわかっていないのか・・・!?
絶望感さえ覚えながら頭を振る。
「単刀直入に言おう。」
彼が視線だけで先を促す。
それは面白がるようないつもの色で、呻く蛍光灯を写しこんだ。
「パンドラの匣を、明け渡して頂きたい。」
その紫の湖面が、ぱたりと止まる。
それと一緒に落としてしまった表情を、再び拾い上げて、
彼の乾いた唇が、ゆっくりと開く。
「“パンドラ、の、はこ”?」
「貴方が隠している部屋やデータの通称だ。そう呼ばれている。」
知らなかったのか、
その言葉に、
彼はやはり、少なからず呆然とした表情で固まっていた。
そして、
その肩が、小刻みに揺れ始める。
揺れる度に伏せられていく顔のせいで、表情は見えなかった。
くつくつと押し込められていた音は、
喉の奥から溢れだし、
私の鼓膜を揺らし震える。
自身の腹部を抑えるように腕で抱えながら、
目の前に銃口を突きつけられているにも関わらず、
身を折りながら、
空いた手で顔を抑えて。
彼は、笑った。
「、いやぁ、知りませんでした。」
実におかしそうにそう言って、彼は顔を上げた。
うっすらと涙さえ浮かんだ目尻を拭いながら、続ける。
「本当に、其の通りですよ。」
そうですね、
そう呟いて、こちらへと向いたその顔は、
既にいつもの顔だった。
「新しい“博士サマ”には、知っておいて頂きたいですから。」
どうぞ、
そう言って、彼は部屋の扉を開いた。
私は、奴を睨み付けたまま、銃を収める。
足を踏み入れたその部屋は、
私に与えられている部屋と、何ら変わらない構造だった。
入ってすぐの大きな部屋と、その奥に続く小さな部屋が一つずつ。
奥に見える部屋には、ベッドが一つあるのが見えたが、
他には何も置いていないようだった。
こちらの大きな部屋は、
四方を本棚がぐるりと囲み、
デスクの後には、割と大きな窓があるはずなのだが、
それも本棚によって隠されてしまって、在るのかすらもよくわからない。
床も資料や本が埋め尽くしており、
それに何とか埋もれまいと、デスクが置いてあった。
(だがそれの上にも資料が山になっていて、今にも雪崩れそうだ。)
だが彼は、
入り口で呆然としている私を他所に、
ざかざかと資料を踏み分けて進み、
デスク脇の本棚から本を手にとっている。
そして、数冊手に取ったところで、
ひょいひょいと私を手招くので、
私は、隙間の無い床に足を進めた。
後で扉が閉まってしまうと、
明かりを点けていない部屋は、薄暗く、
散らばった本に、足を取られそうになりながら、
私は、なんとか彼の横にまで辿り着く。
棚に出来た、本を引き抜いた空間、に、
彼が手を伸ばして、何やら動かすと、
聞こえてきたのは、小さな電子音。
そして、
がこん、という音と共に、
本棚が、開かれた。
「これは、!」
思わず声をあげてしまった私の視界には、
本棚の向こうに広がる、
ぽっかりと口をあけたような、闇。
彼がくつくつと、あの笑い声をあげる。
「この建物をお建てになったのは、
皆、逃げることばかりお考えになる方ばかりですからね。」
古典的でしょう、
そう言って、闇へと目を向ける彼が、
新たに現れたその闇の塊へと、足を踏み出した。
「隠し通路が、お好きなようですよ。」
歩きながらそう流れ出た声は、
彼の白衣の白さえも、
あっという間にその闇に喰われて消える。
私は、その音を追うように、闇の口の中へと、足を踏み入れた。
少し長い階段を下ると、
そこは、やはり暗い部屋だった。
広くはない。
天井も、先ほどの部屋に比べればやや低いようで。
冷たい天井、壁をコードが這いまわり、
壁に並べられた巨大な槽たちが、
その中に散らばるコードたちが、
中に入れてくれる実験体を食べるのを待っていると、
舌なめずりでもするかのように、水泡をたちあげて、ゆらゆらと手招いている。
そんな部屋の唯一の光源は、
この水槽が放つ、ぼんやりとした淡い光のみで。
我々の足音の他には、
機器たちの呻きと、
どこかで、ぴた、ぴた、と垂れ落ちる水の音が聞こえるくらいだった。
黒と光が両方を喰い合いながら、溶け合い、
そして、血脈のようなコードで、柔らかに包み込む、
闇。
その光景は、おぞましい程に幻想的だった。
そして、この闇の腹の中をひらひらと泳ぐ、彼の白衣が、
ようやく止まったのが見える。
それは、一番、奥の、槽の前だった。
その中で、
あの血塗れた 亜麻色の髪 とは違う、
この部屋の闇と、
この男の、闇を、
溶け合わせたような、その、 漆黒の髪 が、
細かな水泡にゆらゆらと揺れている。
「こ、れは、…」
コードやチューブの繭に、
絡まるようにして其処で眠る、それ、を見上げて、
私はただ、言葉を失った。
「貳号と同時期に作成したのですが、
中々目を覚ましてくれないのですよ。」
機体に問題は全くありません。
言いながら彼は、
水槽に接続されたモニタを出して、參号機のデータを起動する。
見ますか、と視線で問われたそれに反射的に頷いて、
私は、モニタを流れ始めた膨大な情報に、齧り付いた。
壱号、貳号、
その緻密で大胆、
だが天才と称するしかない、
穴の無い、このデータ、
更には一機ずつの身体能力、思考能力、
全ての面において個性を与え、
そして、それを絶妙なバランスで最大限に引き出させる、そのセンス。
これが、人、の作り上げたものだというのか?!
これが、 パンドラ 、なの、か。
「貴方が、仰った通りです。」
ゆるりと流れたその音は、恐ろしいこの闇の中でも、
絶対に喰われる事など無い。
彼が、參号の眠る、隣の槽、
空っぽのそれの中で揺れるコードたちは、
恐らく貳号を捕らえていたそれに違いない。
を、ぼんやりと見つめながら、言葉を垂れ流す。
「この匣には、ありとあらゆる“災い”が、閉じ込められている。」
そうでしょう?
そう言って嗤ったこの男の、紫、だけが、
この暗闇の中で、唯一、光、を失わない。
恐ろしい恐ろしい恐ろしい、
狂気に彩られた、この色だけが・・・!
にっこりと、彼が、わらう。
「御粗末様です。」
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100,御粗末様。
〜05,05,24
貳 本編、5、と、6、の間のおはなし、です。