駆け抜けた廊下の突き当たり。
初号機が書庫だと説明したこの空間は、
使われる頻度も少ないらしく、
天井まで届いた本棚の殆どは、
埃がうっすらと積もっている。
私は、
さして広くは無い、この部屋を覗き込んで、
予想通り人の気配が無い事を確認すると、
体を滑り込ませて、
静かにドアを閉めた。
部屋の壁に立ち並んだ本棚と、
元は応接間だったのか、
書斎だったのか。
部屋の真ん中で向かい合う、古めかしいソファとテーブル。
昨日、私が何か読む物を、と覗きにやって来た時から、
全く変わらないこの景色に、
今は、ほんの少し安心しながら、
私はブーツが軋ませる木の床を、ゆっくりと進む。
ふと、
テーブルの上にいくつかの書物たちが、
置いてあった事に気付いて、私は脚を止めた。
カイ本人が資料として持ち出して片付けていないのか、
それとも他の誰かが面倒くさい、と置いていったのか。
判別は出来なかったが、
比較的新しい物なのかもしれない。
(興味が無かったら、適当に本棚に戻しても構わないだろう。)
私は、何か読んで少し落ち着こうとそれに手を伸ばし、
ソファに腰掛けようと足を進…。
むぎゅ。
「う、」
「、わぁッ?!」
木の硬い感触から一転し、
突如足の裏に現れた、柔らかい感触(そして、何やら呻き声、)に、
私は、思わずとも飛び退ってしまった。
ばくばくと一気に跳ね上がった心拍数を知覚しながら、
息をするのも忘れ、そのソファの足元を呆然と見やる。
私の手からすり抜けた本が、
後方に落下した音が聞こえたが、
私は振り向きもせず、
もそもそと動き始めたその、床に転がる、黒い塊に、
更に体を強張らせた。
ゆっくりと上体を起こしたそれが、ふらふらと辺りを見回して、
焦点の定まっていない、赤が、
寝乱れた黒髪の中から私を捉らえた事に、
私はようやっと、それが參号だったのだと気付く。
「何、してるんだ、?」
「それはこちらの台詞です!!」
半ば叫ぶような私の言葉に、
だが彼は、大きく欠伸をしながら、立ち上がっただけだった。
(…まるで聞いてない。)
そして、
ソファと床を見比べている様子から察するに、
寝ているうちにそこから落ちてしまったのだろう。
(それにも気付かないというのは、
末端神経系に異常があるのではないだろうか。)
私は、思わず溜息を吐きながら口を開いた。
「…貴方達には、緊張感というものが無いのですか?」
政府が秘密裏に製作したアンドロイド。
表向き、それ等は全て破壊されたとされているが、
その四体が、今や全てこの家に保管されている事となり、
逃亡した博士は、指命手配さえされていないものの、
数多の組織に血眼で捜されている。
そして、
その標的は、
我々四体も含まれているのだと。
わかっているのか。
簡単な変装は施すにしても、
平気で街へ出て、買い物なんてしてきてしまう意識レベルの低さ。
安全だと気を許し、
傷を嘗め合う、おままごと、の世界。
「、ちがう。」
はっきりと。
凛と鼓膜を揺らしたその音に、
息が止まった。
「俺も、兄さん達も、カイも、」
先程までぼんやりとさ迷っていたはずの赤が、
確かな光を湛え、
そうして、
柔らかな昼の空気の中を泳いで、
私に刺さる。
「お前も、」
その足が木の床を、一歩、一歩、私へと近付き、
私は視線を其の赤に囚われたまま、
後へ後へと足を進め、
がたん、と、背中が本棚にぶつかった事に、息を飲む。
反射的に背中の棚を確認した視界に、
ゆるりと、
その腕が伸びてきて、
弾かれたように振り向けば、
両腕と本棚で、私を囲った彼の赤が、
鼻先に触れるほどの距離で私を見つめて、いて。
…あのひと、も。
そう呟かれた音に、
脳裏に蘇るのは、あの眼鏡の奥の、紫。
「みんな、そんな事、思ってるんじゃ、ない、」
寝起きで掠れた声は、
だがはっきりと言葉を象り、私の鼓膜を揺らし続ける。
そうして、
ふうと降りてきた瞼に、鮮やかな赤が、隠されて。
その手が、
私の前髪をかき上げるようにして、額に触れた。
「、後悔、しているのか?」
ぎくり、と、
私の喉が凍りつく音も、聞こえてしまった、のだろうか。
再び私を映す赤は、
僅かに眉を寄せながら、
言葉を続けた。
「、兄さん、と、カイ、に、」
「触らないで下さい…ッ!!」
だが、私が叫んで払い落としたその手に構わず、
彼は、ただ穏やかなその音で、その色で、
私を、見ている。
「、後悔、しているよ、…兄さん、も、カイ、も。」
「…え?」
聞き返す私に、だが彼は、
苦しそうに眉を寄せたまま、
その目を閉じた。
「お前を、傷付けて、しまった、から。」
「違いますっ!」
周波数周波数波の音その乱れ。
高性能な受信システムは、それを逃す事なく捉え、私に伝える。
壱号機が私に初めて触れたその波。
穏やかを明るさを優しさを表に。
緊張と不安と、私という新しい存在が生まれた哀しさ全ての、黒、を、その裏に。
オリジナルが私の部屋を訪れたその音。
静けさと落ち着きと柔らかさを奏でて。
緊張と不安と、私という未知の物に触れる、恐怖、を、その裏に。
そして其れ等に、
私がこの手で、確かな“ひび”を入れた瞬間。
「傷付けたのは、私ですッ!!」
何故彼等が後悔している。
何故彼等が後悔しなければならない。
何故・・・、
「俺もまだ、わからない。けど、」
僅かに傾げられた首に合わせて、
乱れてしまった髪が、さらさらと流れていく、
音が聞こえる。
「兄さん達が痛いのも、カイが痛いのも、お前が痛いのも、俺は嫌だから。」
お前が、そう思ってる、のと、おんなじ。
そう言って、
ふわふわと、
だが確かに私の前に現れる言葉たちは、
軟らかい波を描き、
私に触れた。
「、だけど、おれたちは、ひと、にはなれない、から。」
そう言った声は、微かに、微かに、掠れて消えて。
そうして私に向けて、
やはり微かに緩んだ、あか、は、
あの花の香りのした、淡い紅茶のように。
「もっと、ゆっくり、もっと、たくさん、考えなきゃいけないと、思う。」
暖かな白い手が私の頬を包んで、
彼の額が私の額に、そっと触れる。
じわじわと、
冷えた神経に染み渡るあたたかなその色と、
その奥に埋まった、
彼だけの色ではない、恐ろしいほどに冷えた、
、くろい、かたまり。
ああけれど、
そこから芽吹いた、鮮やかな色は、
焼け野が原に蘇る、ちいさな花のその色、で。
「俺達だって、しあわせ、に、なってもいいと、思い、たい、」
切れ切れの言葉は、不完全で、不安定で、実に不確かな其れであった。
けれど私は、
余りにもちいさな、その音に、
ただ、瞼が震えるのを堪えながら、
、はい、と、答える。
世界は、この広い広い世界は、恐ろしい程の不安で満ちていて、
小さな我々は、誰しもそれが嘲笑いながらその手を伸ばしてくる事を、
立ち向かっていく時でさえも、戦っている時でさえも、
密かに恐怖し、震えているんだ。
誰しもが。
壱号機も、貳号機も、參号機も、
カイ、も、
そして、
我々を造った、彼、でさえも。
「だから、そんなに自分を、怒っちゃ、駄目だ。」
額を外して、
けれど頬を包む手は其の侭に告げられた言葉に、
私は何度か瞬いてしまって。
彼は、そんな私に僅かに眉間に皺を寄せると、
(それは、初めて見せた彼の、怒り、のその色だった。)
ぐい、と私を睨みつけて、はっきりと言い放つ。
「お前が痛いのは、俺が嫌だ。だから、駄目だ。」
そうして、私の頬を解放すると、
軽く私の頭を小突いて、
、今度やったら、ゆるさない、と、
そう言って。
私が視線を伏せて、微かに頷くのを見ると、
やんわりと、
笑った。
「…これ、兄さん達から。」
ぱ、と思い出したように巡らされた赤い視線が指し示したのは、
テーブルに置いてあった、数冊の本たち。
小説、古典、随筆、評論、専門書、それから…、
「…“100円で出来る美味しいおかず”というのは…?」
「はじめ兄さんの愛読書。」
「………。」
兄さんが言ったんだよ。あいつ、本読むの好きみたいだから、って。
私の腕に書籍の山を乗せた、彼のその言葉に、
私は、
上手い言葉が見つけられなくなってしまって。
じんわりと、胸に広がるのは、やわらかな熱。
視線を上げると、
私のそれに気付いたかのように、
彼は、既に眠そうな瞳で、
けれど、ゆるりと笑ってくれて。
「こんなもの、一日で読破してみせますよ。」
本を抱えなおして、部屋のドアへと向かう私に、
彼がほんの少し笑った気がしたのだけれど、
「、あ。」
その声と共に、赤い虹彩がぴたりと開く。
微動だにしない彼の視線は、
この部屋の壁を、
正確には壁の向こう側を見ているかのようで。
一体どうしたのかと声を掛けようとした、
瞬間。
脳の隙間をぬって、一瞬で核に触れてくる、信号。
“危険”の二文字。
その身震いする程の戦慄の気配は、
一度だけ、目の当たりにした、
違う筈も無い、あかい、炎、の…。
何故こんな所に現れるのか、
相手の目的は何なのか、
様々な憶測が脳内で飛び交う中、
炎の気配は、この屋敷内に侵入し、
あろうことかリビングへと向かっているようだった。
其処には、
昼食の準備に取り掛かっているらしい、
カイと、二郎兄さん、
そして、
洗濯物でも干していたらしい、
もう一人の、気配。
「兄さん…ッ!」
短く叫んだ私は、
我に返った三郎兄さんが、止めるより早く、
部屋を飛び出していた。
「お、久し振り。」
そう声を掛ければ、
二階からリビングへ降りてきたソルが、
視線だけで挨拶を返してくれる。
「珍しいな、昼間っから来るなんて。」
「早く片が付いたんでな。」
「…付けたんじゃなくて?」
俺が、少し意地悪く笑って言えば、
彼はヘッドギアの中で僅かに眉を上げてみせ、
ふいと、視線を逸らした。
そして、その視線は、
彼の来訪に気付いたらしい、カイと二郎へ向けられて…、
突然、弾かれたように、飛び退る。
だんッ!という音と共に、
たった今ソルが居た場所に、二階から飛び降りてきたのは、四人目の…、
「兄さん、ご無事ですか?!」
その銀の髪を乱しながら俺に問う其れに、
だが俺は、彼の手に握られている
(そしてソルが居た場所にめり込んでいる)、日本刀、に眼が行ってしまって、
俺は訳のわからぬまま頷いたのだが、
彼の張り詰めた金の眼が、
ほっと、緩められたのが分かって、
俺も思わずほっとしたのだが、
それとは裏腹に、美しい日本刀の刃が、ぎらりと光る。
そうして、金の瞳は、きっと引き絞られ、
振り向きもせず飛び退った、
やはり訳のわからないといった顔をしている、
ソルへと向けられて。
「…また増えたのか。」
呆然と呟かれたソルの声が聞こえたが、
当の弟はそんな事聞こえていないようで、
ちゃきッ、と鍔の音を響かせながら、鋭い刃で彼を指す。
「博士の屋敷だけでは飽き足らず、この邸宅にまで侵入するとは、良い度胸です。」
ゆらりと揺らぐ銀の髪に見えるのは、静電気。
丁度その姿は、
何事かという顔で、二郎と共にキッチンから壁伝いにこちらへ向かってきた、
カイの、時折見せる、其れにそっくりで。
(それはそうか。)
「なに、なに、どうしたの?」
「ソルが何かやらかしましたか?」
大変面白そうな顔で、一方はやや慌てた表情で、
俺に問う二人に、ただ、俺も訳がわからないと肩をすくめる。
だが、
俺が、そして二人目の弟が、
初めてソルと出逢った時の事を思い出して…。
「コソ泥風情が…。この家を荒らす者は、私が許しません!!」
コソ泥呼ばわりされた事に、
ひくりとソルの目元が引き攣ったのが見えたが、
そんな(一方的な)殺気の張り詰めるリビングにも関わらず、
相も変わらず暢気にぱたぱたとスリッパを響かせて下りてきた三郎を、
俺達は慌てて引き寄せて、
安全そうなソファの裏から、四人でひょこりと顔を出す。
「ねえ、兄さん!あいつ、…アレと面識無いからさ、もしかして…、」
「ああ…。多分、」
俺達の交わす言葉に首を傾げるカイに、
その隣の三郎が、彼の袖を引きながら、口を開いた。
「あいつは、“背徳の炎”を敵だと思ってる。」
…“ソル”を知らないから。
その言葉に、
彼も、俺達が初めてソルと出逢った時の事に思い至ったのか、
はっとしながら、未だ睨み合う二人を見る。
そして、何やら止めようとしたらしい彼が、
動こうとした、
瞬間。
、風、が切れる、音。
それは正に一瞬。
俺達の目にすら計測出来ないスピードで一閃された刃に、
ソルも咄嗟の事で反応出来なかったのか、
彼の前髪が僅かに斬られたのを見ていた。
そうして、
弟は、緩やかな動作で刃を鞘に収めて、
射殺さんばかりの、金を滾らせながら、
静かに、静かに口を開く。
「神妙に、なさい。」
今度はその首を斬り落とすと言わんばかりの台詞に、
さすがにソルも封炎剣のグリップを握ったのが見えたのだが。
「ソルー、家の中で法力使用したら許しませんからー。」
にこにこと告げたカイの言葉に、
ぎょっとしたソルが振り向くが、
斬りかかってきた弟に、それも儘ならない。
だがカイは、
始まってしまった二人の戦いを観戦しながら、軽く首を捻った。
「それにしても、あの技はジョニーさんと同じ…?彼は何処であの技を?」
「新しくプログラムされたんじゃない?」
「多分な。俺、博士の部屋に、刀埋まってんの見たことあるぜ。」
「…zzz。」
「そうだとしても、あの真剣は何処から…!」
「僕、兄さんが骨董市で買ってるの見たけどー。」
「いやー、暴れん坊や将軍見てたら、つい欲しくなって。」
「…zzz。」
「………。」
「其処に直りなさいコソ泥ッ!!」
「…ヘヴィだぜ…。」
結局。
この戦いは、
うっかり戸棚にぶつかってしまったソルが、
皿やティーカップをいくつか割ってしまって。
カイの雷が落ちるまで、続いてしまったんだけれど…。
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〜05,11,16
82,聞こえる?