「行こっか、獄寺君。」


そう言って俺が差しのべる右手は、
お願いではなく、命令である。


そう気付いてしまったのは、いつだったか。



その度に彼は、はい、と従順に頷き、腰をあげ、俺の手をとってくれた。

そのひらべったく骨張った手が俺は好きで、
新しい火傷の痕が増える度に、俺は怒った。
(最近はもはや一睨みするだけで通じるらしく、しかし彼は苦笑するだけで何も言わない。)

彼がその身体に痕を作る事を俺は止めてくれと頼んだが、
彼は、いやです、と珍しく首を横に振った。


俺達は喧嘩をした。


もしかしたら一方的だったかもしれなかったけど、
俺は朝早起きをして彼より早く登校し、(黒川に明日は雨だと言われた)
昼飯は山本と二人で食べて、(といっても単に彼が昼休み来なかっただけだ)
放課後は補習もないのに一人で帰った。

帰り道、横切った野球部のグラウンドの側で、山本が、「仲直り、お前等なら出来るって、」と言って、
いつものように肩を小突いてくれた。
その笑顔に突然俺は泣きたくなって、ああ自分は、仲直りがしたかったんだと気付いた。



大事な人と喧嘩をしたのは、それが初めてだった。



その夜、俺は布団にくるまって散々泣いた揚句、
彼の譲れない、ライン、というものがここなんだと解って、
それが“十代目”じゃなくて、(いや、やっぱり少しはあると思うけど、)“俺”を護ることであると、
自意識過剰だとも思ったけど、きっとそうなんだと解って。
彼は今何をしているのかなと考えて、
俺はまた、少しだけ泣いた。




翌日、
彼は朝俺の家を訪れず、
学校には遅刻してきて、
いつもなら授業中だとかも関係なく挨拶してくるのもこんな時ばかりなくて、
少し離れた席では視線が合う事もなく、
俺は授業中、はねた銀髪の先がきらきらしてるのを視界の端っこに入れて過ごし、
しかしそれが、忽然と姿を消していたことに気付いたのは、昼休みの直前だった。

屋上で俺が弁当を開けもせず、…ちょっと、行ってくる、と屋上のドアを半ば蹴破るように開けると、
山本がけらけらと笑いながら、行ってらっしゃーいと牛乳パックを振ってくれた。









ばたばたと上履きが酷くうるさいのは、走り方が下手だからなんだろうけど、
それですれ違う生徒に嫌な顔されるのも、その音すらも、全部彼のせいにして、俺は走る。


教室にいないのはわかってたけど、いちおう教室行って、
校舎裏、校庭の隅、体育館裏、たまり場の空き教室、視聴覚室、保健室まで行ったりして。
…いろいろ廻って、なんか他の不良に睨まれたって今日は振り切って走った。(これも全部、彼のせい!)


、もしかして、今日はもう帰っちゃったのかな、と思って、誰もいない廊下でぜーひーいってたら、
なんで俺こんなみんながお昼楽しげに食べてる時間に不良に絡まれたり先生に起こられたり階段で滑ってスネとか打って地味に痛かったりシャマルに追い出されたりぜーぜーどころか喉ひゅーひゅーいわせてリボーンにもこんなに走らされた事あったっけとか思ってたらなんかもう腹立ってきちゃって、なんかもう昼休みの和やかな空気も5時間目数学で宿題忘れててやばいのも全部全部彼のせいだ!とか思って、



「獄寺隼人のばかやろー!!!」
びゃーん、!!!



俺の息も絶え絶えの叫びに答えたのは、酷いピアノの不協和音だった。

汗を拭いながら顔をあげれば、
「第二音楽室」の札が見えて、
授業では殆ど使われていない、音楽倉庫みたいな部屋なので、馴染みが薄かったのだが、
そういえば今まで微かに誰か弾いていたな、と思い至って。
(あのピアノ、まだちゃんと弾けるんだなあ/壊れてるんだと思っていたのに。)

だけれど、
別に取り立てて気になることもなかった(というか半ば耳にすら入っていなかった)ので、
その突然の不協和音のあと、ガタタン!と慌てたように硬い椅子やピアノの蓋を動かす音が響くが早いか、
俺は殴り込むように音楽室の扉に手を掛けた。


ばちん!、と防音用の重い扉をこじ開ければ、鼻をついたのはいつもより大分きつい煙草の煙で、
俺はむせ返りそうになりながら(目に染みて涙は出た)、
ピアノの向こうの窓から、飛び出そうと試みたまま固まっている彼を、見付けた。



「ここ、三階だよ。」



長いかもしれない沈黙の中、
俺の口は、なんて言葉をかけようか必死に回る脳内を余所に、勝手にそう言った。
その酷く冷めた音に俺は自分で驚いたけれど、頭の何処かが酷く冷静なのがわかった。
(でも、その他の大部分が、目の前の彼と一緒になってオロオロとしている。とてもしている。)


「…いえ、あの…、に、二階に、足掛かりになりそうなとこも、あるの、で、」

「怪我、するよ。」


恐らく自分で何言ってんのかもわかんない顔してる彼が口をつぐんだ。
視線は落としたままだった。
(ああ、どうしようどうしようどうしよう、何言ってんの俺、でも、どうしよう青空黒いカーテン白い髪靡いて、風、強い、窓枠に掛けてんのは、右足、足、長いな、どうしよう、煙草、煙、におい、きつい、)


、降りて、と俺の声が言うと、彼はゆっくりとその長い足で音楽室の木目のタイルを踏んだ。


俺は少しほっとして、肩の力をゆるゆると抜いた。
心臓がやたらと動いていて、俺は今の景色に酷く恐怖していたことに気付く。

掌の火傷の痕も、
、だいじょうぶです、といってきみが笑う時も、
俺に気付かれないようにこっそりと洗われた、微かに返り血の飛んだシャツも、

全てにおいて、俺が恐怖していることを、彼は知らない。
俺が、何に、恐怖、しているか、も、彼は気付かない。

こんなにも単純で、簡単で、当たり前のことなのに!



「どうして、朝来なかったの。」

「すみません、」

「どうして、挨拶してくれないの。」

「、すみません、」

「どうして、どっか行っちゃうの。」

「…すみません、」

「どうして何もちゃんと理由言ってくれないんだ!!!」

「…っすみませ、ん、」

「あやまるな!きみはおれが声かけて、手を差し出して、そうして頷いてくれるけど…、そんなの命令じゃないか!!
おれ、おれは…!きみに命令したいんじゃないんだ、きみの、きみのこえが、聞きたいのに、」


何が、
自分の頭のもしくは口の喉の胸の腹かもしれない、何処かが、好き勝手に大きな塊を吐き出して、
俺は、心臓にまで汗をかいたように息を切らしながら、
ようやく、身体の主導権が俺に戻ってきた事を確認するように、襟元を掻き抱いた。

彼の目を見る。
彼は、泣きそうな顔で、何かを言おうと口を開いていたけれど、
そこから零れそうな音は、俺には予想もつかなくて。
、ダメツナ、おまえのせいで、どうせ負ける、何も出来ない、おまえなんか、邪魔、いらない、独り、…俺、なん、か。
頭を過ぎる音は、酷く耳慣れた単語ばかりを吐き出していて、
俺の上履きは、じり、と、退った。


「…俺が馬鹿だから?俺が頼りないから?俺が信じられないから?」

「ちがいますッ!!!」

「、おれが、“十代目”、だから、?」

「…っち、が、う…、ちがうんです!!!」


彼が必死に声を殺したまま、叫んだ。
埃っぽい黒いカーテン。褪せたグランドピアノ。錆びた窓枠。削れた床。鮮やか過ぎる青空。まぶしい、君。

きっとイタリアの空は美しいに違いないのだ。
だって、かれのあのきれいな灰色の奥にある、きれいなきれいな、あお、はきっと・・・。

俺はその目が今も綺麗に歪められて俺を見つめているのを見返しながら、
頭の片隅でそんな事を思っていた。
心臓の裏側は冷静に、ことことといつもの音を立てていたけれど、
俺の喉は残りの黒い塊を吐き出すように、抉じ開けられて。


「そんな、そんなんだったら俺は十代目なんかいらない、君は、“十代目”の右腕になるって、言って、くれるけど、
…君が、俺の“右腕”を勝手に傷付けるっていうなら、それだっていらない!!!…俺は、ただ、ただ…、」



感情の濁流の氾濫。
俺は叫ぶ事をやめない自分の口に呆然としながら、泣きそうな顔で俺を見ていたごくでらくんが、
たまらなくなってこちらへ足を踏み出したのを眺めている。ただ?ただ?ただおれは…、


、きみが・・・、      



唇から零れたそれが音になったのかわからなかった。
俺は一瞬のうちに噎せるような煙草の煙が染みついたシャツの中に包まれていたからだ。
俺の身体を抱きしめた彼の腕が酷く震えていて授業中きらきらしていたあの髪が俺の頬をにちくちくと撫でていて俺は自分が泣いていた事気付いた。
煙が滲みるからだった。
耳たぶに触れる、じゅうだいめ、じゅうだいめ、と繰り返される掠れた音に、鼻腔までヒリヒリしてきて、ああ、俺は、



じわりと彼が埋めた襟があったかく湿って彼が泣いてるのがわかったけど、なんできみが泣くの泣きたいのはこっちだよ、抱きしめられた腕が背中が痛いし煙草のにおいがしみるし制服は文字通り汗と涙でぐちゃぐちゃだし胸がいたいし君の日にやけて赤くなった白い首から甘いコロンの匂いが掠めて胸が痛いいたい、居たい、んだ!



音楽室のスピーカーから、チャイムが響く。
古いスピーカーの微かなノイズと一緒になって、黒いカーテンがざらざらと揺れて。


「行、こう、獄寺君、」


涙で湿った右手を、差し延べる。


「昼休み、終わっちゃったけど、」


お腹すいたよ。俺が言う。俺もです。彼が頷く。かっこ悪かった。少し笑った。
彼の手。そのひらべったい手がすきなんだ。これは命令、なのか違うのか違わないのか否かああなんかもうどうでもいいんだ。
きみが来ないなら俺が呼ぶ。そして捕まえる。きみが言わないなら俺が叫ぶ。そうしたい、そうできるように、それが赦されるような、ひとに、おれは、在りたい。






射し延べて、刺し述べて、

弁 当 半 分 こ し よ う 。 山 本 も ま っ て る よ 。 飛 び 出 し た 屋 上 の 空 は 、 あ あ な ん て 鮮 や か な 青 !


差しのべた右手。







〜07,07,05