微かに甘く鼻を掠める香りに、目が覚める。
嗅ぎ慣れないそれは、嫌な感じはしないものだったけれど、
それとはまた違う、
嗅ぎ慣れた、残り香が、ひとつ、鼻腔に触れていて。
「血のにおいが、する。」
呟いた自分の声で、目を開ける。
真っ白で味気の無い天井に、病院という文字を脳内が打ち出すのを理解しながら、
僕は未だはっきりとしない頭のまま、思考を巡らせた。
基本的に寝が浅く、いつもは味気ない夢ばかり見ているが、
今日のように熱に浮かされた時は、それらは酷くリアルな悪夢となって、眠りながらも意識を蝕んでゆくというのに。
しっとりと汗ばんだシャツが、やはり今日もうなされていた事を示していたけれど、
今日は、その夢の断片すら、思い出せないのだ。
確かに、いやなゆめをみた、気がする。
けれどその時、…誰かが来て、・・・その後は、よく覚えていない。
左右を見回してみても、
似たような白い部屋が視界に映るだけで、何もなかった。
…、そう、それで、そのときに…、そのときに・・・?
「…何だっけ。」
呟いた声が掠れていた事に気付いて、僕は冷えた床に足をつけると、
棚の中の冷蔵庫から、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
冷えた水が喉を流れるごとに、意識がすっきりと醒めていくのを感じながら、
いつものようにうなされていた筈なのに、随分とすっきりとした寝起きだな、と疑問に思う。
そういえば、久し振りに夢も見ずに、短時間でも深く眠れたものだと気付いた。
…否。もしかしたら、誰かがいたような気がしたそれすらも、夢だったのかもしれない。
その、酷く美しい夢を、気付かないうちに、ずっと見ていたんだ。
僕はその白く甘やかなやさしい雲の上でまるくなってねむっていたに違いない。
けれど、瞼の裏側にへばり付いた、夢というには余りにも鮮烈な美しい景色を、
本当に夢だったのかと、疑う自分と、
やっぱり夢であったのかと、納得してしまう自分がいて。(至極当然の事だ。)
溜息が出てしまう。
…我ながら、随分と情け無い夢を、見たものだと、思った。
窓からの冬の日差しを受けて、
窓際にある、白い花弁が黄色く透けて、ふうわりと揺れる様に、
瞼の裏で何かがチリチリと光った、気がした。
(すべてはゆめ、であろうはず、なのに、)
胸が、疼く。
微かだった血のにおいが、段々とはっきりと感じられるような錯覚。
何となく口寂しさを感じて、
僕は、ひび割れて乾いた唇を撫でた。
無性に、焼けてしまうような冷たい水の中に飛び込んでしまいたいという衝動が全身を襲った。
骨がぎしりと軋んで、掌がトンファーの柄から伝わる衝撃と熱を欲している。
頭の中がわんわんと五月蝿かった。
それは警報だ。
頭蓋骨の裏側に焼き付いた、微温湯のような夢に対する、僕というものを形作っている細胞からの拒否反応だ。
ああ、白い窓、白い空、白いカーテン、それに囲まれた、蜜色が、透けて、白く、輝いて、ぼくに、雪を、差し出している。
その景色の、なんと、ぬるく、よわく、ちいさく、あまく、うつくしいこと!
規則的なノックの音と共に現れた、
検診に訪れた医師に、僕は告げた。
「誰か連れて来て。」
誰でもいいのか、と聞き返す医師に頷いて、
僕は、相部屋にして欲しい、と続ける。
「ゲームを、したいんだ。」
男は頷いた。
僕は、薄く笑う。
「ルールは1つだけ。僕が寝ている間に物音をたてたら、噛み殺す。」
…ね、簡単でしょ、と言えば、
男は、ただ震えるように俯いて頷いた。
ざわざわと窓の外の木が音を立てて揺れていたので、
僕はそれも五月蝿いなあと思い、男に出て行くように促す。
「葉が落ちる音でも、僕は目を覚ますから。」
…面白い人、連れて来てね、という言葉に男はやはり頷いて、
静かに扉は閉められた。
これで少しは暇が潰れるかもしれない。
しかし既に、きっと大して面白くも何とも無いんだろうとは思ったけれど、
ああこの空虚を感じている今こそが現実だ、僕は目を醒ましているのだと、僕自身が理解することが出来たので、
その事が何となく可笑しく感じてうふふと笑えば、
見慣れない白い花が、窓際でふるふると揺れた。
酷く、あまくてやさしい匂いが、鼻を掠める。
それは、馬鹿みたいに、美しい景色だと僕の眼には映った。
まるで、まぶたのうらがわにこびりついていた、あのふわふわとした、夢のようだとおもったけれど、
あれはゆめだったのだから、もう、ぼくは、ほとんどおもいだせない。ああ、だって、それは、うつつのものではけしてなく、
白色に切り取られた、白昼夢。
僕 は 今 も 、 破 壊 し 続 け て い る 。 再 び 瞼 を 閉 じ た 時 、 こ の 夢 の 続 き が 見 れ た ら と 、 願 わ ぬ よ う に 。
〜07,11,28
ほんとはスノードロップは1月2月とか、
春を告げるお花なので、
12月の話としてはありえないんですが、
それを知ったのが、大分書いた後だったもの、で・・・。