「カイさんは、あの赤い人の恋人なんですよね?」
が、ちゃん。
キッチンから聞こえた彼と陶器の短い悲鳴に、
思わずソファから身を乗り出して振り返る。
結構な音量だったけれど、
向かいのソファに眠り込んだ黒髪の彼は身じろぎもしなかった。
(…あ、よだれ垂れてます。)
「い、いきなり何を言い出すんですか?」
カウンタから顔を覗かせた彼は慌てていたけれど、ちょっとホッとした顔だった。
お皿は割れてなかったみたい。
「反論しないって事は、やっぱりそうなんですねぇ。」
クッキーを頬張りながらそう言うと、彼の頬に薄く紅がさしたのが見えた。
(ちょっと面白く無い、です。)
「…突然、どうしたんですか?」
そんな質問するなんて、と呟きながら、
彼がポットを手に隣の椅子へと腰掛ける。
シンプルなポットカバーの隙間から、甘い林檎が香った。
「なんだか、よくわからなくって。」
砂時計を返す彼の指は、少しごつごつしててとても綺麗だ。
クッキーの粕を払う自分の手は、同じ形の筈なのに何処か違った。
僕の肌が彼より黒いから、というだけでは無いんだろう。
「…わからない?」
彼が首を傾げながら、ティーカップを三つセットしてくれる。
だけど三人目は起きる気配すら見せない。
(あ、なんか寝言言ってます。)
カイさんはそれに気付いて少し笑うと、
椅子に掛かっていたタオルケットをそっとかけてあげた。
僕はぼんやりとその情景を眺めながら、口を開く。
声はするりと滑り出た。
「だって、あのひと、ギアじゃないですか。」
彼の、
やさしげに緩んでいた碧い眼が、
一瞬で固まったのが見えた。
「カイさんは人間なんですから、寿命とかあるのに、なんであのひとなのかなって。」
僕の言葉に、その碧い湖面がゆらゆらと溶けて、
溢れるかと思ったけど、一回のまばたきでそれは落ち着いてしまった。
(ちょっと残念。)
だけど僕には、
どうして彼が、そんな顔をしてるのか、わからない。
「…そう、ですね。」
長い溜息みたいにそう言った彼は、
眼を伏せたまま言葉を探しているようだった。
蜂蜜色した前髪が、はらりとその瞼にかかる。
「どうして、なんでしょう。」
僕は、
ぽとりと落とされたこの言葉に、
なんとなく、心臓の産毛がちりちりと焼けるような感覚に陥った。
「カイさん、」
滑り落ちたその声も、
彼の腕を引いていたその手も、
全てが自分のものだと気付いて、僕はひどく驚いた。
(カイさんも少し驚いて僕を見ていた。)
この、痛い想い、の、名前はなんだろう。
僕はそれを知らない。
でも、彼はそれを知っている。
「カイさん。僕は、“失敗作”なんです。」
彼の沈んでしまっていたその目が、
いつもの光を宿しながら、驚いて見開かれたのが見えた。
僕は少し、ほっとした。
「感情中枢が破損して、“何か”が無いんです。だから、」
わからないんです。
いつも、あのひとの話をする時の、彼のあのあったかい眼、だとか。
今もぐるぐるとしている、僕のこの心臓の痛み、だとか。
あのひとが、彼の蜂蜜色の髪を撫でる仕草の意味、だとか。
ああ、僕の口は何を言っているの。
こんな事バラしてどうするの。
(でも言わないと、彼は“何か”誤解したまんまだと思ってしまったんだもの。)
彼が、
そのきれいな手で、僕の頬を撫でてくれた。
だけど、その目がゆらゆら揺れるから、
ほら、僕の心臓はちりちりと音をたて始める。
「、だから、そんな顔しないでください。」
僕の声は小さく、掠れて消えてしまった。
彼に聞こえてしまったのかはわからない。
ただ、
僕が彼を、何だか責めるようなつもりで質問したんじゃない、と、
そういう誤解は解けたみたいだった。
僕の髪を撫でてくれるその手は、まるでぬるま湯のようだ。
「“すき”なんですよね。」
彼の隣に身を寄せてそう聞けば、彼の眼は、やんわりと緩んだ。
ちょっとやっぱり面白く無い気はしたんだけれど、
僕は質問を続けてみる。
「じゃあ、離れるの嫌なんですよね。」
少し、その睫毛が揺れた。
ふわふわしたそれは、たんぽぽの綿毛みたいだと思う。
だけどそれは、きっと彼のように強くてしなやかなんだろう。
「カイさんが、ギアになっちゃえばいいのに。」
彼の目が、おっきく見開かれて、こっちを見る。
暫く彼は言葉が出なかったみたいなんだけれど、
ちょっと苦笑して、なんとか口を開いた。
下手な笑い方だ。
「ミイラ取りがミイラになってどうするんですか。」
その顔と声は、
何もわからない子供に言い聞かせる親のような、兄のような、
それか、覚えの悪い生徒に足し算を教える先生みたいな、そんな顔だった。
(僕は真面目に聞いているんですけど。)
視界のはじっこで、黒髪の彼が身じろいだのが見えた。
「いいじゃないですか。だって、」
僕は、甘い林檎の空気を吸い込んで、言葉を続けた。
「そうすれば、身体が腐ったっていっしょです。」
だってそうなれば、ずっといっしょなのに。
問題なんか無くなってしまうのに。
“すき”なら“離れたくない”って思うんじゃない、の、かな。
どうしてそれだけじゃ駄目なの。どうしてどうして。
僕は、知らない。
彼のこのきれいな碧い湖面を歪ませて溢れさせてしまいたい。
僕が知っているのはそういうもの。
それなのに、
彼は、ゆるりと首を振る。
「少し、出し過ぎてしまいましたね。」
彼の視線を追い掛けると、
とうに落ち切ってしまっていた砂時計にぶつかった。
彼がそっとポットカバーを外すと、熟れ過ぎた林檎の匂いが溢れ出てきて。
いつも思う。
彼は、
一本の細い糸の上を渡っているんだ、と。
そして、それをあの人は見上げてて、
僕たちは、そんな二人を真っ暗な底から見つめてる。
そして、がんばれがんばれ、って声を張り上げながら、
心の何処かで、彼が落ちてこないかと、腕を広げて待ってるんだ。
でも、
少なくとも僕は、
さっさと墜ちちゃえ、って思ってる。
悪いことなんか何も無い。
こんな“痛いきもち”なんか知らない知らない知りたくない。
彼の白い手が真っ赤なお茶を白いカップに流し込んでふんわりと白い湯気があがる。
むせ返るような林檎の香りは真っ赤だ。
もしもその足元の糸を切ってしまったら、
彼はどんな顔をしてくれる?
「カイさん。」
僕のカップを持ち上げてくれた彼が、振り向いて微かに首を傾げた。
ああ、心臓が焼けている…!
僕が、汚い手を伸ばして、
彼のきれいな手に触れようとした、
その瞬間。
「駄目だ。」
寝起きのその声は、少し掠れて、すぐ消える。
だけど、
僕を見詰める、二つの紅、は、
視界を覆う黒の中で、はっきりと輝いていた。
(レッドランプみたいだ。)
険しいその紅い眼は、
真っ黒の前髪の隙間から、やっぱりゆらゆらしていて、
そして、やっぱり僕にはそれが理解出来ない。
(どうして僕をそんな哀しい眼で見るの?)
「おはよう、カイ。」
さぶろうさんが、
カイさんに向き直る。
彼は、
さぶろうさんの寝癖のついた黒髪を撫で付けてあげると、
やんわりと笑んで、僕等に言った。
「さあ、お茶にしましょうか。」
紅葉色のお茶にふんわりミルク。
一口含めば、やわらかに熟れた林檎の蜜の匂いが広がって。
僕の心臓の火傷も、じんわりと鎮火。
「おいしいです。」
思わずそう零してしまった僕が、
その言葉を慌てて拾うよりもはやく、
カイさんが、ゆるりと、笑う。
ありがとう、と言ってくれた唇もその頬も、
きれいな紅茶の、あか、をしていた。
隣にいたさぶろうさんが、何故か僕の頭を撫でてくれて、
(ちょっと笑ってたのはどうして?)
僕は訳もわからず、ティーカップを傾ける。
きっと、わかる。
耳元で微かに囁かれた、いつもの寝言のようなその声は、
砂糖のようにふわふわと林檎に溶け込んで、
僕は、紅茶の最後の一口を、ゆっくりゆっくり飲み干した。
会者定離:会った者は必ず別れる運命にある。人生の無常を説いた語。
運命。無常。世界の理。
僕には、未だ、わかりません。
カイさんが、あのひと、のためにコーヒーを淹れるその時の表情の意味も、
あのひとが、カイさんを呼ぶ時の声のやわらかさの意味も、
今は、未だ。
058.会者定離
〜05,01,25