其処は、笑顔が溢れる世界だった。
皆が心から笑い、
手には刀では無く鍬を持ち、身体に鎧は無く泥を付け、
田の中で笑いあいながら、また家の中で杯を交わしている。
武士も百姓も商人も関係無く、村で街で城の中で、みなが笑っている。
綱元も、成実も、喜多も、愛も、小十郎も、そして、
ふわりと俺を包んだのは、やわらかな腕。
「ああ愛おしや愛おしや、かわいいかわいい私の子。」
小さな俺の身体は、すぐに彼女の温度で溶かされて、
、ははうえ、と呼んだ声すら消した。
「あら、ふふふ、かおが汚れてしまっておるわ。さ、かおをおあげなさい。」
その白い指が、俺の頬を掬い上げて、
だが、次の瞬間俺の眼前に広がっていたのは、ははのやさしい笑顔ではなく、
長い爪の光る、蜘蛛のように広げられた、白い掌。
そして鈍い音、その指、熱い熱い熱い、おれのみぎ、め。
「あ、っあ、あああぁああああッ!!!」
「ほら汚れが取れた、これでお前も少しは美しくなった、うふふ、」
美しく笑うその人は、
右手を赤く染めたまま、コロコロと鈴のように笑って、
悲鳴をあげて地に伏せて悶える俺を見下ろした。
そして、
楽しそうにしていた其の目が、
すうと熱を失い、ぶらりと腕を垂らし、つまらなそうに言う。
「…なんだ。汚らしいのは“これ”ではなく、貴様自身であったか。」
べたり、と、
力を失った右手から白い球が零れ落ちて、
俺の残された左目と目が合った。
「ひ、」
最早熱を失ったであろう赤に塗れたそれに、
生理的な嫌悪感と恐怖にも似た戦慄と、そしてただ何か愛しいというような想い、と。
全ての色が脳裏を塗りたくるような衝動に駆られて、俺の喉は引き攣るような声をあげる。
その白の向こうには、俺に背を向けたうつくしいひと。
「、たれか、浄めの水をもて。手が汚れてしまった。」
するり、するりと聞き慣れた遠ざかる衣擦れの音。ああ、行ってしまう、
「、ははう、え、」
追いたい、という衝動、
追わなければ、という警告。
喉が震え脚も震えた。
未だ熱く疼く右目を抑えたまま、おれは一歩、脚を、前に…、
けれど、
「呼ぶな。」
ぴしゃりと刺されたその声に、
俺の全身は縫いとめられる。
「、貴様のような化け物を産んだ覚えなどありはせぬ、」
言った彼女の腕には、
俺と同じ顔をした、
俺より少し小さい、
俺と同じく彼女の胎から産まれた、それ。
「ああ愛おしい愛おしい、じくまる、わたしのこ、」
彼女の声と共に、ゆるりゆるりとそれが揺れる。
ゆりかご/ぼさつのかいな/こもりうた。
「兄が憎らしいか、あれが憎らしかろう、ああ、憎らしい、」
甘い甘いあいのうた。
焼け焦げる右目。
腕が足りない。
右目を押さえ耳を塞ぎ口を閉ざし胸を抑え膝を支え腕を擦り左目を覆う、手が足りない。
ああだから、
そのうつくしく赤い唇が、きれいに弧を描くのが見えてしまった。
「、ころしてしまいましょう、」
ああそして、
おれとおなじかおの、けれど綺麗な右目がわらって、口を開くのが見えてしまった。
「、はい、ははうえ。」
二人が美しく笑う。
それは綺麗な化粧箱に入れられた絵巻物のような、
宝殿に納められる屏風のような、
完璧で間違いも綻びも汚れも無い、うつくしい、えがおのあふれる、場所だ。…けれど、
「、ちがう、」
声が漏れた。そうだ違う。
ちがうちがうちがうちがうちがう、
こんなものは違う、間違っている、こんな景色は、違う、だって、みんながいない、
あんなにわらっていた、みんながいない、だから…―、
するりと背後に現れたのは、
感じ慣れた彼等の、気配。
ああ、息が出来る、
とたとたと軽い音を立てて目の前を横切っていく、少年。
一つしか違わない俺たちは、
それこそ本当の兄弟のように…、
俺は乾いた喉を動かして、
慌ててその腕を掴み、名を、呼んで、
「しげざ、ね、!」
ぱしり、
響いたのは、無機質な、きょぜつ。
叩かれた右手が、じんわりと痛み出したのを見下ろして、
その少年が、それすらも嫌だというように、顔を顰めた。
「さわんな。」
ぎしりとせかいのきしむおとが、きこえる。
踵を返し、やはりとたとたと走り去っていくその背中を見送って、
立ち尽くす俺の視界に、すうと入り込んだのは、長く伸びた影。
それは大きな背中だった。
その気配は薄く、足音は皆無。
口数も少ないけれど、その温度は酷く温かい。
高く結われた長い髪がふうと揺れたのが見えて、
俺は、そちらへ足を進めた。
「つ、なも、と、」
するりと、触れようとした指先を摺り抜けていくのは、その袖。
「汚らわしい。」
いつもの低いあの声が鼓膜を揺らし、
ぐらりと視界も揺れた。
せかいが、せかいが、ぎち、ぎち、と、おとを、たてて、いる。
「、きた?、めご…?」
俺の呼び声に反応し、
顔を伏せていた彼女たちが、こちらを見てそして。
「さがられませ伊達家の跡取りたる御方がそのようで恥ずかしい。」
「めごは何て不幸なのでしょうこのような殿方に一生を添い遂げなければならぬなどああなんという拷問。」
足元に空が広がり、天に大地が横たわる。
水が滾り、焔が流れ、風が落ち、雷が吹き、
雪は黒く、皆の顔から笑顔は無く、母は醜く、弟は憎いと笑い、彼等が、俺に、背を向ける。
せかいの反転。
無限に広がる世界は有限で小さく、
俺はその中で蹲り、高きを目指し歩き出すことはなく、其処に在る。
せかいの、反転、だ。
倒れた俺。
転がった眼球。
それから、
「梵天丸様。」
声。
屈み込む気配。
顔を上げる軋む背骨頬の傷見慣れた顔。
「、こじゅう、ろう、」
そう呼べば、
彼はいつものように頷いて、その左手を差し出した。
「お返しします。」
「、なに、を、?」
俺は嫌な予感がして、静かに足を進める彼から逃れようと、必死に後ろへと退ったのに。
先ほどまで地に転がって俺を見ていた、あの白い球が、見当たらない、のは、どうし、て、?
しかし、左目を巡らせる俺の前に進み出た彼は、
この狭い視界を遮るかのように、するりと屈み込み、そうして…―、
彼の右手が、右目を押さえていた俺の手をどかし、
彼の左手が、俺の右の眼孔に触れる。
「、よせ、やめろ、か、え、す、な、それは、おまえ、が、」
「政宗様。其の両の目で、しかと御覧下さい。」
その左手が去り、
おれは、瞼を、闇の視界を、ゆっくりと、押し、上げ、て。
見えたのは、
うず高く積み上がった、歪んだ地平線。
赤く黒く青く白く大いなる彩、それは何よりも無色に。
広く広く広く何処までも拡がる鮮やかな視界は、
何処までも何処までも艶やかに歪んだ死界だった。
、けがらわしい、さわんな、さがられませ、なんという、
空々しい音たちが何も無い世界に響き反響し氾濫して、
空しいこの手は誰も掴む事なく、堕ちて、
いつも俺を呼ぶあの声が、刺すように、囁く。
「、是が、貴方の、業、なのです。」
俺は、
悲鳴を上げていた。
、 あ あ 、 何 と 儚 い 、 笑 顔 の 溢 れ る 場 所
07,03,07,