正月にもなっていない上に、どこぞの島国の風習を彷彿とさせるような、
強さだけは溢れさせる墨汁が象ったのは、
“ 今月の目標:初日の出に誘う ”
という(お世辞にも綺麗とはいえない)文字で。
そして、
高々と部屋の壁に掲げたばかりのそれを前に、
本人は、うーんうーん、と頭を抱えたまま、卓袱台に突っ伏したまま…。
俺は、最近騒がれている、
年末に突如現れた謎の変質者“S”のスクープ記事を、さっさとめくって、
その見慣れたシルエットの写真を見ないようにしながら、
唸ってばかりの黒い塊に向けて、口を開いた。
「…で、どうやって、いつ誘うんだ?」
「…………。」
今日も部屋に響くのは、俺の溜息だった。
Merry Christmas, Mr.Lawrence !
on Fifth Night.
〜LOVE!涙色?〜
「ううおおおおおおおお!!!」
突然の雄叫びと共に卓袱台が悲鳴を上げて、
だが奴は構わずに、勢いよく立ち上がり更に叫んだ。
「考えるのは性に合わねぇ!!!」
まぁ、そうだろうな、等とこちらがぼんやりと思ったのが伝わった訳ではないだろうが、
奴はソファを占領した俺に向き直ると、
仁王立ちしたまま、やはり叫ぶ。(…近所迷惑だ。)
「行ってくる!!!」
「…策は?」
「無い!!!行ってくる!!!!」
「…夕食当番お前だぞ。」
「それまでに帰る!!!行ってきます!!!」
その台詞が切れるか切れないかの辺りで既に響いたドアを閉じる音に顔を顰めて、
俺は静かになってしまった部屋の中に、ひとつ、大きな溜息を落とした。
この街に来て一週間程しか経っていないが、
老けたような気さえするのは気のせいではないのだろう…。
俺は、自然と眉間に力が入っていた事に気付いて新聞をとじると、
コーヒーでも淹れようと席を立とうとして、
「相変わらず、暑苦しいこと。」
涼やかに滑り込んだその声に、凍りつく。
弾かれたように振り向けば、
奴が出ていった筈の戸口に背中を預けて、
ひらりとこちらに手を振ったのは、
「お久しぶり。お元気そうで何よりね。」
「…“ 碧 ”…、」
こちらが驚いたのが嬉しかったのか、
彼は口端を吊り上げると、俺達よりも薄い金髪を揺らしてくすくすと笑った。
「何故、」
「あら、だって兄さんも、来たでしょう?」
思い出すのは、
目の前の男の白い指が押し上げた、碧のヘッドギアよりも濃い、
黒髪に隠れるように付けられた、真っ青なそれ。
「あの方のお気に入りのお前が、わざわざ出てくるってのは、どういう事だ、?」
発した声が自然にトーンを落とす。
それを何とでもないように見送って、
彼は、軽く肩をすくめて笑った。
その碧いジャケットを滑り落ちるのは、俺達よりも甘い色をした、金の髪だ。
「あの方のご機嫌が、ナナメなの。」
そう言う音は何処までも平坦で、
俺達と何ら変わらない音色。
「お気に入りのあんたたち二人が、珍しく手間取ってるみたいだから。」
「…今直ぐ、戻れ、と、?」
喉が乾いているのが自分でもわかった。
だが、彼は、こちらを見もせずに、(わざと視界に入れないように、)
あっさりと首を横に振る。
「いいえ。ここ何日か、まるで平和なデータしか送信されてこないから、見て来いって言われただけ。」
、引き続き、シロちゃんとクロちゃんには、実地試験を続けてとのお達し。
その言葉に、思わずとも安堵の溜息が零れてしまって、
少し慌ててそれを飲み込んだ瞬間には、呆れたような半眼が目の前にあった。
「兄さんから、聞いた。…クロちゃんの話。」
、…大丈夫なの?、と聞いてきたそれは、
俺達を調査しに来た、あの方の右腕としての顔では無く、
俺達の、同類として友人として同胞としての、その顔だ。
俺はただ答えずに、
素直に溜息をついて、肩をすくめた。
それだけで、色々と悟ってくれたらしい彼は、
俺と似たような深い溜息を吐くと、眉を寄せて、腕を組んだ。
俺は、最早手の中にあっただけの新聞を畳み、ソファに放ると、席を立つ。
何日か振りに、剣を握るであろう左手が、少し疼いた。
「伝えてくれ。今日、明日の内に、片は付ける。心配はいらない、と。」
静かにそう言った俺の言葉に、しっかりと頷いて、
彼は結った金の髪をくるりと翻しながら戸口に立つと、それじゃあね、とこちらを振り向いた。
だが俺は、
クロちゃんにヨロシク、と続けた彼の姿を見送りながら、
喉元まで出掛かって彷徨っていたその言葉を、ついに吐き出した。
「お前…、そのミニスカート、何とかならねぇのか…。」
「あ、さっすがシロちゃん!これ新作なの〜vvv」
「……………。」
「折角こっち来れるっていうから、いつもの味気無いカッコじゃちょっとねーぇ。」
先日、
俺達を探しに来た、こいつの兄の腕に、
けして暗くは無い、その青いジャケットが、見えなくなるほどにぶら下げられていた紙袋を思い出す。
丸で彼に不似合いな、色とりどりのブランドの袋たちに、目をチカチカさせながら、
、弟に頼まれてしまって…、と、
疲れたように黒髪を揺らしていた彼の姿が脳裏に蘇り、
俺はやはり、深く溜息を吐いた…。
「…とは言ったものの…、」
ぼんやりと呟いた俺の息が、
クリスマスから一斉に年越しの飾り付けにと色を変え、
しかし同じように、せかせかと、けれど楽しそうに歩く人々の空気に昇華する。
今年も、あと三日。
きっと、あのこのところだって、
今頃年末の大掃除とかで忙しいだろう、し…、
そんなことをぼんやりと考えていた脳を放って、
視覚が、ふう、とそれに捕まった。
通りの向かいにある、一軒の店。
雑貨屋か何かなのだろう。
その店の名前の入った小振りな紙袋を一つ抱えて、
ゆっくりと歩き出すそのリズムと一緒に、俺の視点も歩き始める。
やわらかそうな黒髪。
カイさんの話から推測するに、寝癖と思われるハネ。
初めて会った時にも着ていた、
温かそうなダッフルコートに、今日は雪も積もらせずに、
その、あかい目を迷わずにするりと街中へ滑らせて、
慌しい人たちの波に、紛れようと、して。
「あ、あ、あ、の、!」
無我夢中で掴んでしまったあの子の腕は、
思ったよりしっかりとしていたけれど(何か武芸の嗜みがあるのかもしれない)、
それでも細くて、
あの子の、ゆうるりと俺を映してくれたあの赤が、
驚愕に染まって見開かれたのに、俺の方が驚いてしまった。
「、あ、」
驚きと困惑を含んだ小さなその声が、俺の鼓膜を揺らして、
俺は、そんなに強く掴んでしまったのかと、大慌てで謝りながら手を離したんだけど、
あの子の目は、見開いたまんまで、
(え、なんだろ、おれ、どうしよう、こんないきなり声かけたからか、わ、忘れられてる、とか、
ていうか、ちちちち近いきれいな目、だな、あ、髪やわらかそうな、おこらせた、どうしよ、おr)
ぐるぐるぐるぐると永遠に掻き回される思考の中でも聴覚は正常で、
ぼさ、という音と共に俺の知覚が捉えたのは、
あの子が抱えてた、紙袋。
その音に、俺達は同時に我に帰ったらしくて、
とにかく俺は、訳もわからずに手の届く距離にあったそれを拾おうと無意識に手を伸ばして…、
ざっ、と地面を蹴る音と共に、
その紙袋を抱え込んだあの子が、俺の手を振り払うように摺り抜けた光景に、
俺が、立ち尽くす以外にとれた行動とは、一体何だっただろう、か。
「………、」
俺に背中を向けたあの子が、
何か言おうと振り向いて、
ああ、きっとカイさんのように、でもそれとまた違うきれいな色で弧を描くであろうその唇は、
何も発する事なく、
そしてそのきれいな景色を俺に与えてくれるはずもなく、
その二つの赤の残像だけを残して、
きっとご兄弟が待っているであろう家へと、
振り返ることなく、
振り返ること、なく、
走り去って、しまった。
冬の日暮れは、
はやいと、きく。
ああ、だけど、
俺はまだ視界の端を突き刺す太陽を知覚しながら、
働かない頭のまま、そこに立ち尽くして、いた。
店仕舞い直前の、市場の呼び込みの声に、
相方に言われた、夕食当番、の単語が蘇る。
ぼんやりと、実にぼんやりと見上げた空は、
真っ暗だった。