「なあ、壱号。お前は弟が欲しくないか?」
思い出すのは、意味深なその言葉。
「…弟…、」
呟いてみても何が変わるというわけではけしてない。
ただ俺の小さな声が、この暗い廊下に染みて消えるだけだ。
この辺りは元々来賓用だかなんだかの部屋があったらしいが、
滅多に使われないことから、隔離、観察に適しているだとかで、
今はこの奥に俺へとあてがわれた部屋がある。
ある研究員がこの部屋を“玩具箱”と呼んでいた。
なんとも上手い表現だ。
どうでもいいこと、だが・・・。
俺は、軽く頭を振った。
目や髪の色を変えても良いだなんて、まるで…
「…あいつ、まさか、」
「良かった、見つけたよ!」
唐突に聞こえたその声に振り向くと、
芝居がかった仕種でまくしたててくる、見知った男の姿があった。
(実に不本意だ)
「君が処分されるかもしれないと聞いて慌てて飛び出してきたのだけれども、
たった今博士から話を聞いてね!安心したよ。」
「…はあ、」
俺が曖昧に頷いた隙にこちらの両手をがっしりと掴むと、
(生温い手が気持ち悪い)
奴はにっこりと笑った。
博士と同じ、裏に何かを含ませた笑顔なのに、違和感を覚えるのは何故だろう。
「…ところで、」
こちらを見ろという合図だろうか、男が掴んだ両手を微かに引いて、お喋りを続ける。
顔の距離が近かったので、
俺は思わず微かに身を引いてしまった。(俺の反射神経機能は有能だ)
「君と話したいことがあるのだが、少し付き合ってもらえるかな?」
そう言って笑顔を作る、この男の名は知らない。
ただ、知っていることといえば、
博士のいう“上の連中”の一人で、あるということ、
そして四十過ぎの男色オヤジだということ。
それは、つまり、
俺に否定権は、無い、ということ、で。
「…はい。」
短く頷いた俺に、男はやはり、笑顔で応えた。
「お話とは?」
使われていない来賓室。
埃でも溜まっているかとひやりとしたが、
そこは案外と綺麗だった。知らない間に清掃をいれていたんだろう。
さっさとすませてしまう“お話”とやらをするくらいなら、
全く支障ないほどの部屋だった。
「まあそう焦らずに。
お茶でも飲みながらゆっくり話そうじゃないか。」
そう言った男の、ゆっくりと舐め回すような視線にこっそりと溜息を吐き捨てて。
俺はそれを払い除けるようにソファを立った。
「では、私が。」
「いや、君は座っていてくれたまえ。」
いつもならこう言った俺の背中を、うざいほどに追いかけてくるその視線が、無い。
男は俺をソファへと押し戻しながら、にこにこと続ける。
「こう見えても私は普段から紅茶を嗜んでいてね。
美味しいお茶を淹れることには自信があるんだよ。」
言いながら、男はさっさと壁際にある簡易キッチンに立ってしまった。
「・・・では。恐悦ながらお願い致します。」
俺は、刺々しさも隠す事無く、思わずそう言ってしまって。
ちらりとこちらを見て、にっこりと笑顔を返してくる、
その男の視線に気付かない振りをして、
思い切り顔を背けてやった。
だから、俺は気付けなかったんだ。
今日はきれいな満月だったということも、
用意されたティーカップが有名ブランドだったということも、
男が、俺のカップに何か盛ったことも。
すべて。
「どうぞ。」
恭しく差し出されたカップに手を伸ばす。
「有り難う御座います。」
言いながら傾けたカップからは、
嗅いだ事の無いエキゾチックな香りが漂ってきて。
少しキツイそれに飲むことを躊躇したが、
隣から注がれる視線に、とりあえず一口、口に含んでみた。
だが、そのキツイ香りとは裏腹に、
味は柔らかく飲み易いもので。
少し拍子抜けして、もう一口ゆっくりと味わう。
男が、その口端を歪ませた気がしたのだけれど、
振り向くと其処には、変わらない笑顔があった。
「話、というのはだね、他でもない君の事なのだが。」
「私の…、ですか?」
そうだよ、と言いながら、
さり気無くこちらの手を握ってきた男の手を、
反射的に払おうと、して。
ぎしり、と、動かそうとした筋肉の軋みが聞こえる。
今 の 音 は な ん だ ?
だが疑問に思った次の瞬間、
握りこんでいた指を動かすと、何も無くスムーズに動く。
気のせい、だろうか。
「単刀直入に言ってしまおう。」
こちらが首を捻る間も無く、
男は、掴んでいたこちらの手をしっかりと握りなおした。
「私の下で暮らさないか?」
「………は?」
思わず思い切り眉を寄せて聞き返してしまったが、
男は聞いていないようだった。
ずい、とこちらに身を寄せながら、更に続けてくる。
「前々から思っていたんだがね、今回のことで決心がついたよ。どうだい?」
「どう、と、申されましても、」
冗談じゃない・・!
こちらの胸中の悲鳴を知ってか知らずか、
だが男はじわじわと身体を寄せてくる。
俺は身体を引きながら、
そして掴まれたその手を振り払って、言った。
「そ、そう!恐らく博士はそのような事を許可しないでしょうし、」
隔離された部屋で生活し、
研究所から外に出ることを許されないこの俺が、
こんな男の下で暮らすなど、
あの博士が許す筈は無いのだ。
この男のような人間が俺を見る眼と、
他の研究員たちが俺を観る眼。
種類は違うがそんなに違いは無いのだ。
奴等は俺を、自分等のモノとしか見ていない!
だけど、
博士が俺を、みる、あの、紫の眼、は…ちがうの、だと。
そうおもうのだけれど。
男が、ゆっくりと口を開く。
「嫌とは言わせないよ。私が政府の重鎮と通じていることは君も知っているだろう?」
くすり、と笑いさえ零しながらそう言って、
男は、こちらの目をひたりと見据えた。
「私の一言で、彼の未来を左右させることだって出来るんだよ。」
その低い声で放たれた一言に、唇を噛む。
反論さえ出来なかったこちらの顔を見て、
男の目が、一瞬愉悦の色に染まったのだけれど、それはすぐに伏せられた。
そして、ゆっくりと慰めるような音で、続ける。
「聖戦は終わり、ジャスティスは倒れ、そして、…君の役目も終わった。」
男は、にっこりと笑って、
こちらの頬を優しく撫でた。
「もう自由になっても良いじゃないか。私の下にくれば、絶対に幸せにしてあげるよ。」
その声は、その手は、
飽くまでも、そして何処までも、やさしい。
「、どうして、」
こちらが呟いたその言葉に男は、うん、と聞き返した。
俺は、顔を上げる。
「どうしてそこまで私に固執するのですか。」
真っ直ぐに見た男の表情は、
驚いて、頬にやっていた手すら落として、
目を見開いたまま、暫く固まっていた。
そうして、
再びにっこりと、
だが恐ろしい程に影の下りたその顔で、
にっこりと、笑うのだ。
「君は、本当に『彼』と瓜二つだね。」
穏やか過ぎるその声と言葉に、思わず首を捻る。
男は再びこちらへ手を伸ばして、俺の髪を梳いた。
「絹のような金の髪、青空のように澄んだ瞳。」
髪から頬へと撫で回すその掌が熱くて、思わず身を引く。
だが、男はしっかりとこちらの顎を抑えたまま、
もう一方の手で俺の前髪をかき上げて、まじまじと眼を見下ろしてきた。
君が空なら、彼の瞳は紺碧の海のようだったけれど…、
そう呟いて嬉しそうに笑う。
「それ以外に『彼』と違うところなんて、殆ど無いくらいにそっくりだね。」
ようやく、書類上でしか会った事の無い『彼』に思い至って、
俺は、見下ろしてくるその視線から逃げ出した。
男がくす、と笑ったのが聞こえる。
「従順に私に従いながらも、反抗的な色を隠さないその態度までそっくりだよ。」
耳元で聞こえていた声音が、低く変わってきた事に、
俺の顎を抑えていたその手が外されて、痛い程に腕を掴んできた事に、
じわじわと、
寒気にも似た警鐘が這い上がってくる。
「私はね、君を手に入れたいんだよ。」
真っ赤なアラート
真っ赤な警告文
真っ赤な色、音、匂い、感触、気配、全て、が、
に げ ろ 、と悲鳴を、あげていたのに・・・!
「私のものに出来なかった、あの“坊や”の代わりにね。」
その言葉が耳に入った瞬間、
俺の視界は反転した。
*次話、少々女性向け。苦手な方は御注意*
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43.ファック