初めて浴びてしまった血潮の臭いが離れない。


ああ、確かにこれは浴びない方が絶対に良い。
臭いは勿論、それを吸った服が重たくって仕方が無いし。
肌にまで染みたそれの感触はなんとも気持ちが悪かった。


着替えたいという思いに、
いつもは気だるく動く、あの何も無い部屋、
“玩具箱”だなんて呼ばれていたけれど、的確な表現だと思った。へ戻る足も、
今は高く廊下に響く足音も気にせずに、機敏に動いた。


だけど。


硝子越しに僕を見下ろすあの、
翠の目が、

驚き、戦慄、そして恐怖。

それらによって見開かれた、あの顔、を見たか。



思わずとも喉の奥から零れてしまう、くつくつという笑い声さえ小気味良い。





「ざまァ、見ろ。」





ぽつりと呟いた声が長い廊下の闇に溶けて、そして、




「何が、ですか?」




声が、返って、きた。











反射的に床を蹴り、壁に貼り付く。

呼吸さえ止めて気配を探れば、
そいつは、僕の部屋の前から一歩こちらへと足を踏み出した。


見慣れた白衣。
だが、聞き慣れない、その声。


そいつは、
此処になら何処にでも居そうな黒髪に、
特徴の無い眼鏡をかけた、一人の研究員だった。

もしかしたら何回か会っていたのかもわからないけれど、
いちいち顔なんか覚えていなかったから
(覚えたくもない)
どうだかわからない。



とりあえず敵じゃないという事に、壁から背を離して、
(よくよく考えてみれば、この建物内にいて、
そしてその最奥であるこの部屋の前で、敵などが侵入出来る筈は無いのだ。)

僕はそちらへと足をすすめる。




「あんた何?ここはあんたみたいな下っ端が来る場所じゃないんだけど。」




その言葉に、男はくすくすと笑った。
三歩ほどの距離を置いて立ち止まると、黒髪の隙間から覗いたその眼が、
僕と
同じ色をしているということに気付く。



「ええ、少し用事がありまして。」



許可は頂いていませんがね。
しれっとそう言った男は、眼鏡のブリッジを直しながらこちらを見た。




「誰が、“ざまァ見”るんですか?」




聞かれていたという事実に、体温が跳ねあがる。



「別に、どうだって良いでしょ。」



話は終わりだ、と睨みつけて、
そこをどけとばかりに腕を振ったが、男は動かなかった。


ゆるりと開いた唇と、
眼鏡の奥からこちらを覗く、その紫の眼。


あの白衣の連中なのは間違い無い筈なのに、

この男の纏う、空気、の違いは、なんなんだ・・・!






「怒りや、苛立ち、妬み憎しみ。それだって立派な人間的感情でしょう。」





素晴らしいと思いませんか。
言って、白衣の男は、笑ってみせた。


僕は、
その男の言葉にちょっとだけ驚いてしまって、
ぽかんと開いてしまった口を慌てて閉じて、髪を掻いた。





「あんた、変だね。まるで僕が人間みたいな言い方してさ。」





男は、
本当に瞬きほどの一瞬の間。

なんだか切ないような、哀しそうな。
とにかくもそんな影をその顔に落としたんだけれど、
それは本当に一瞬のことで、
直ぐに見透かすようなそんな笑みに戻ってしまったから、よくわからなかった。


僕は、
何故そんな眼をされなくちゃいけないのかと、
同情でもしようっていうの?人形のこの僕に!お前等の遊び道具であるこの僕に!
思わず怒鳴ってでもやろうかと思ったんだけれど、


男が、突然こちらに手を伸ばし、
(殴られるのか何か攻撃されるのかと、僕は反射的に身構えた。だけれど、)






僕の頭を、くしゃくしゃとかき混ぜる。






その荒れた掌は、温く熱を帯びていて。
らしくもなく僕はただされるが侭に、呆然としていた。


こんな温度は知らない。


同じ白衣の人間なんて見分けが付かないほどいるのに、
こいつも同じ下っ端研究員のはずなのに。


あたたかい、掌が、僕の髪をくしゃくしゃにして、
ああ、だけど、離れていってしまうその指にきれいな赤が移ってしまって、
(だけどこの時僕はその赤をきれいだとは思わなかった。)

彼はそれに気付いて、
そして血塗れの僕を改めて見ると、
一瞬、やはりその影を降ろしたあの顔で、
僕の顔に飛び散っていた赤を、その白衣の袖で拭い取った。


早く、シャワーを、
引き止めてすまなかったとでもいうように、もう一度僕の頬を指で撫でて、

男は、歩き始める。




「ねぇ…!」

「、貴方には、」




思わず僕が呼びかけた声に被せて、男が言った。

肩越しに振り返る、
僕と同じ、紫の、
、が、笑う。







「貴方には、兄が、いるんですよ。」







おやすみ。

そう残して、

男は、静かに歩き出し、

廊下の闇に蕩けて消えた。



























「…ねぇ、」


声をかけたからといって、この男はけして僕を振り向かない。

それはもう知っているから、
だけど、僕が口を開いた事に少なからず驚いていることもわかっているから、

僕は、その白銀の髪が流れる背中に向かって言葉を続けた。



「、黒髪に、眼鏡の、研究員て、誰?」

「その特徴に該当する人間は多過ぎる。」



資料を睨みながらのその言葉に、確かにそうかと頷いて、
僕はソファに沈みながら、
あの男を思い出してみる。



「…紫、」



その白銀の髪がぴたりと固まってしまった事に、僕は気付かなかった。
ただ、静かにあの男を思い出す。



「紫の、め、をしてた。」



あいつ誰なの?
その言葉に、男は手元の資料を机に置いて、
静かに、初めて、その椅子を回してこちらを、見た。




「その男に会ったのか。」




何か、恐れなのか焦りなのかわからない色を混ぜたその翠に、
僕は反射的に身を引きながら、頷く。


「廊下、で、ちょっと。」


嘘はついてない、そう思って、
だけど何故だか僕は、あの部屋の前でというのは言ってはいけない気がして、
だってあの男は、許可はもらっていないといっていたから・・・!

でも、どうしてあの男を庇うような真似をしているのか、
それが何故なのか僕にはわからない!

だが男は、すぐに視線を落としてしまった。
何か考えるような、だが何処か少しだけほっとしているようなそんな顔だった。



「ねえ、質問してんのこっちなんだけど、」



身を乗り出して、そう問えば、
男は、静かに溜め息を吐き出す。

それは本当にずっと溜め込まれていた何かを吐き出すように聞こえて。


彼が、真っ直ぐに僕を見る。






「お前や壱号の発明者さ。」






そう言って、
彼は、僕が生まれる前の話を、掻い摘んで喋った。


長い、


時間的にはそんなに長くなかったのかもしれない、でも長い、

その話が終わって。





部屋へ戻れ、

そう言われた事すらも、わからなかったように、思う。









醜悪な、白。

醜悪な、翠。

醜悪な、命。


そして、

何よりも、何よりも、何よりも、


救い様の、無い程に、醜く悪しき、
、か。











自分の部屋の前、

昨日のちょうど同じくらいの時刻、あの男が立っていたこの場所、で立ち止まる。






頬を、指で撫でるその、眼の色。

髪を、かきまぜる掌の、温度。

すれ違った瞬間の空気、その匂い。






僕はただただ、この色温度匂い、しか思い出せないんだ。









あの男が、僕をここに造った。


それは、

今、僕が、
ここに居ることが、
こんな訓練をしていることが、

こんな想いをしている、ことが、


すべて、

あいつのせいだと、いうこと。









「ゆるさない。」









僕を造ってくれた、博士、も。


そして、







僕を完成させてくれた上、僕を独りにして、逃げ出した、






兄、も。













「赦さない。」















呟いた声は、静かに闇に溶け消える。




僕はただ、


静かに部屋のドアを、閉じた。


















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87,暗殺計画