真っ青な空を、真っ赤な果実が弧を描く。


いつも行く八百屋のおばちゃんが、
おまけしてくれたトマトは、
瑞々しくてとても美味しそうで。

軽く放ったトマトが手の中に戻ってくる時の重みに、
今日の夕飯は何にしようかと頭をめぐらせる。


「すみません、いつもいつも買い物に付き合ってもらって、
しかも変装してまで。」


申し訳なさそうに言ったカイは、紙袋を抱えたままこちらに並んだ。


「何言ってんだよ。エンゲル係数増やして、申し訳ないのはこっちの方だ。」


その言葉にカイはやっぱり申し訳なさそうに笑んで、ゆっくりと歩き始める。
それに倣いながら、俺は言葉を返した。



「世話んなってる身として、家事くらい手伝うのは当然だろ?」

「その言葉、あいつにも聞かせてやりたいです。」



げんなりと溜息混じりに吐き出されたカイの言葉に、
(だが、それはまるで照れ隠しか何かしているようにも見える)
俺は、いつも突然やってくる
赤銅の眼の男を思い出した。




「聞かせたところで改心するような奴とは思えないけどなあ。」




笑いさえ零してしまった俺に、カイはやはり溜息をついて、
その通りですね、と苦笑した。





和やかな、日々だ。


朝、目が覚めれば、
差し込む朝日、緩やかな風、日の匂いのする毛布。
おはようございますとかけられる声と、温かいブレックファーストティー。


全てが、きれいな世界、だ。



けれど。





俺は、あの闇、を、忘れては、ならないのだ。






「それに、結構気に入ってるんだぜこの格好。」




言って、サングラスを押し上げる。
黒く暗い視界は生まれ落ちた時の光景を静かに思い出させて。
あの、
、をおもいださせて


カイが、ほんの少し眉を寄せたのが視界に入ったけれど、彼は知らない振りをしてくれた。



「それにしても、今日はまた随分と買い込みましたね。」



俺の抱える、許容量を越えた紙袋に軽く眼を見開いた彼に、
俺はにやりと笑ってみせる。

頭の片隅に広がる水輪のような音は、間違う筈の無いあいつの気配。



「ん、ああ、今日は三人分作らなきゃだからな。」



気付いていない
(そうでなければ彼はいつも窓の鍵を気にすることなどないのだ。
けれど、そこに俺が来るか来ないかを言ってしまうのは何か違うように思えた。)


思わず笑いさえ混じった俺の言葉に、カイが何か聞き返そうとした、

瞬間。



   み つ け た   





声が、聞こえた。







弾かれたようにその気配を振り向くが、
目の前にまで迫っていたのは一筋の雷撃。


反射的に地を蹴るが、
頬を掠めた電気が、ぢッと音をたてて足元で爆発する。
(サングラスの縁が焼き切れた臭いがした)



「…な、」

隣でカイが何か言いかけたようだったけれど、よく聞こえなかった。



俺はただ、
教会の屋根の十字に手を掛けて、ひらりと飛び降りる、


見慣れた
黒衣をみつめていた。




ばさ、と風を含んだ布が膨らんで、流れながらはためく。

上機嫌に弾ける雷を纏うのは、鮮やかに煌めく紅い刀身。

“彼”は、ゆるりとそれを振って、ぱちぱちと騒いでいる電気を慰めるように、その刀身に唇を寄せた。




そうして、こちらを向いて笑うその、め、は、
あいつと同じ、鮮やかな
、だ。




「ま、さか、」




声も喉も震えていたけれど、
その声が聞こえたらしい“彼”は、嗤った。

嬉しそうに口端を吊り上げて、くすくすと肩を揺らして、
嬉しそうに嬉しそうに嬉しそうに、


驚愕、恐怖、そんな色で塗り固められたこの俺の顔を見て、“彼”が嗤っている!





「そう、その“まさか”。」




とん、という軽い靴音共に、“彼”が俺達の前にふわりと降り立つ。

風の法力の公式は頭を過ぎっていくというのに、
眼の前でにっこりと、笑ってみせる“彼”の情報は微塵も出てこない。


“彼”は、それすらも見透かしたように、笑んだ。

そして、
ゆっくりとその顔をあげる。








「僕は、あんただよ。」









息が、 止まり そう だ 。









「そんな…!」

カイが隣で声をあげたけれど、やはり“彼”は笑った。



「驚いた?」



悪戯が成功した子供のような顔で、そう言った“彼”に、
カイが言葉を詰まらせた音がする。


…そうだよねぇ、驚きもするよね、と、
自分で頷くようにそう呟いて、“彼”は俺へと視線を向けた。



「あんたは、全ての研究データとサンプルを、破壊したつもりだったんだろうから。…けど、」



すうと細められた紫に、こちらの心臓まで絞られる。

わかるよね、
そう囁いた彼の唇が続ける。





「今ここに僕がいるってことはさぁ、
あんたは、ミスを犯したってことなんだよ。重大なミスをね。」


「ミ…ス?」




こちらの言葉に優雅に頷いて、彼は手の中で紅い封雷剣を弄んだ。


「僕らアンドロイドが、ベースとなる人間のDNAを元に作られているのは、あんたも知ってるよね?
だからこそデータ壊して、あんた自身も捕まらないように、逃げたんでしょ?」


死体からだって、DNAはとれるんだからさ。

その言葉に頷いて、口を開く。
向こうの言っていることが理解できるのに、
どうして“彼”が此処に立って、こうして俺と言葉を交わしているという事実が分からない。




「なら、どうしてお前は…。それに、気配は全く感じなかった!」

「僕は、暗殺用アンドロイドだから。気配を消すくらいなんでもないよ。」




そうぽつりと落とされた言葉は、すぐに消えてしまったんだけれど。
…ふと、外されたその視線が、少しだけ何か空虚な色をした気がして。
つきつきと音をたてる胸が痛い。



「そう、あんたは上手くやり遂げたつもりだったんだろうけど、残ってたんだよ、ちゃんと。」



“彼”が紡ぐ言葉は、脳の奥にこびり付いた、あの闇に散らばっていた糸を掻き集めて回る。
それは細くて今にも切れそうな、
蜘蛛の糸か何かのようだ。


忘れたくても忘れられないでしょ?


そう囁かれた言葉が、俺を見つめる紫の視線が、俺の心臓を血流をばくばくと押し流す。

蜘蛛の糸、じゃ、ない。



これは、


張り巡らされた、
蜘蛛の、巣。





「あの時の、あの場所に。」





 いき、が、できな、い 。


“彼”の、真っ赤な唇が、嬉しそうに、吊り上がる。





「あんたが、変態オヤジにゴーカンされた、あの部屋に、さ。」





思い出すのは這い回る手の温度、脳内を掻き回すソファと骨の軋む音、
愉悦に染まった眼、舌の感触、垂れ流される声、嫌悪焦燥悲鳴痛覚殺意。



全身が、震えているのが、わかった。



「すっごくムゴい殺し方したらしいじゃん。血飛びまくっててさぁ。
首から顔まで手刀で、中途半端な電気メス。頭吹っ飛んでたってよ。ひどいねぇ。」



震える腕に身体に、
カイが、
いつかのように少しだけ眉を寄せて俺を見たのがわかった。
だけど、その視線はすぐに、“彼”へと注がれる。

それに応えるかのように、“彼”は唄でも唄うかのように、続けるのだ。



「そう、部屋の中に飛び散っていたのはあの変態ジジイの血だったよ。けどね、」



俺の頭を過ぎったその、想像、を、
肯定するかのように、“彼”は
ぞっとする程に美しく、笑んだ。





「そいつの性器に付着していた血液だけは、違ったんだよね。」





がちがちと震える腕からすり抜けた紙袋が、足元に落ちて中身が散らばる。


「素直に啼いてればよかったのにさぁ、」


言いながら踏み出されたその足に、俺の両足はじりじりと後に下がった。

“彼”は、その姿に、首を傾げて
(肩に首を寄せたといった方が近いのか)
その亜麻色の前髪を揺らした、その隙間から、
慈愛のような色を浮かべた紫で、俺を見る。



「痛かったでしょ?…可哀想にね。」



一歩。一歩。
こちらへと近付く靴が、こつり、こつりと音を俺の耳に届けて。

ぐちゃり、と鈍い音をさせて、きれいなトマトをその足が踏み潰したのが見えた。




「…でも、」


その唇がゆっくりとそう言って、息を吸う。




三歩も有るか無いかほどのこの距離で、
あの男と同じ色の美しいほどの
が、真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに、俺を、突き刺して。






「僕は、もっと可哀想。」






その言葉を聞いた、刹那、


風が、切れた。






右肩を掴まれ、
だんッと背中が壁に叩きつけられた音が、自分の身体から聞こえて、肺が詰まる。

耳元に突き刺さった
真っ赤な封雷剣の音が、脳髄まで響き渡って消えない。




「あんたさえいなければ…僕が生まれることは無かったのに。」




鼻先を突き合わせるような距離から吐き出された言葉は、呪詛のようなその音で、
俺の身体を神経を絡め取って締め上げる。



燃え滾るその、揺れる紫の視線から、
俺は目を逸らす事など出来なかった。












“彼”が、その、真っ赤な唇で、きれいに、笑んで、



囁く。













「ねえ、兄さん。」















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33,絶対矛盾