吹き上げる細やかな水泡。
絡まり、繋がり、呻くコードやチューブたちに包まれ、
ぼんやりと浮かび上がる緑の黒髪も、白い肌も、
辺りの絵画のような風景に溶け込んでいて、
だが、確かに“其れ”は息をしていた。
それを証明するように、
目の前のスクリーンを塗り潰していく膨大なデータの波に、眩暈さえ起こしながら、
私はただ呆然と、
眠り続ける參号を見ている。
だが、その隣に立つ彼は、
まるで今日の天気の話でもするかのように、口を開いた。
「この部屋へのパスワードを教えましょう。」
は、として振り向いた私をすり抜けて、
彼は私の手元にあったキーボードへ手を伸ばし、
表示していたスクリーンを閉じる。
画面からの光が消えたにも関わらず、
そのまま私を見上げる紫の其れは、
甘い光を宿した侭、で。
私はその毒に侵されまいと、思わず一歩、足を引いた。
だが彼は、甘やかな紫を細めて、口端を吊り上げる。
見透かすようなその目は、
私さえ見えないところまで見えているようで、
私は、その紫を追い出そうと、必死に睨み返した。
彼が肩をすくめて、
そうして、參号の水槽を撫でる。
「この子の核へ侵入する為にも、必要でしょうから。」
ねぇ?
そう言って、笑う紫は、
私への挑戦、に、他ならない。
音を立てず伸ばされた腕と、艶やかに浮き上がる髪に、
黒猫の姿を彷彿とさせながら、
私は、彼の手によって、自分の白衣の襟元が引かれていくのを、
どこか他人事のように眺めていた。
私の鼓膜に、あの唇が開いた音が触れて、我に帰る。
彼は、やはり笑ったようだった。
そうして、私の耳に、
紫の蟲毒が垂らされる。
「パスワードは…、」
「 “ GUILTY ” 」
小さく落としたその声を拾い、優秀なロックは瞬時に反応した。
キュイン、と聞こえた電子音を鍵に、
ゆっくりと本棚が開かれる。
そうしてぽっかりと開いた黒い顎へ踏み込んで、
私は薄く照らされた階段を下りていった。
それはまるで、神話にあるペテロの門へと続く階段のように思う。
罪を浄化する煉獄山の入り口、その門へと続く、三色の階段。
其れを、降りていく、というのは、罪を贖う事にすら背を向けて、
文字通り背徳の世界へ、自ら堕ちていくのと、同じこと。
そして、それはあながち間違いでも無いのだろう。
階段が終わり、代わりに現れたコードの這い回る床も、
漸く何処に足を置けば歩き易いかが、分かってきた。
機器の呻きも、
水槽の溜息も、
以前の主人がいなくなってしまった今も、
けしてその声を変えずに、鳴き続けて。
先程聞かされた、
だが、半ば予想はしていた、
上層部の連中の言葉を、思い出しながら、声を流す。
誰かに、聞かせるわけでもなく、
否、此処に息衝く全ての玩具共に伝えてやろうとしたのかもしれない。
慈悲では無く、其れはただの自己満足に過ぎないけれど、
「彼はこの研究所を追放され、この部屋は開かれた。」
それは、私が最も望んでいたことだ。
実際私が、彼を陥れようと手を下した事も、
こうなった原因の一つなのだから。
それなのに、
此処に、彼は、いない。
これは、私が最も望んでいなかったことだ・・・!
私は、部屋の最奥の水槽に手をついて、少しだけ、深く息を吐いた。
ひんやりと冷たい硝子は、先日まで温かかったものだが、
当然ながら、もうその熱の欠片も残ってはいない。
天井から無気力に垂れ下がったコードから、
ぱたり、ぱたり、と響く水音が、やけに響いた。
そうだ、
確かに、彼を陥れようとしたのは私だった。
だが、
あの頭脳、地位、名声、いくらでも彼に手札はあるのだ。
をもってすれば、それを回避するのは、
例えこのように最悪な事態が起こってしまったとしても、
容易いこと、のはずで。
そして、私は当然そうなると思っていた。
だから、これは、
彼が、自ら、決めたこと。
「くだらない・・・、情などに流されて自らを破滅へと導くなど、」
なんと愚かな事だろう。
なんと馬鹿げた事だろう。
何故、彼がそうしてしまったのか、私には、解らない。
解ることなど、出来ない!
だが、それでも、
彼が此処に居なくとも、私は、
私は、彼を超えなければ、ならないのだ。
その為だけに、私はこの道を歩いてきたのだから。
そして、今、
その手札は、私の手の中に、有る。
私は彼を超える事が出来る。
私が、勝者となるのだ・・・!
「參号。」
呼びかけた声に、瞬時に反応する足音が一つ。
歩く度に揺れる、だが彼とは違う、黒衣に闇を纏わせながら、
一定のリズムを繰り返す靴音は、実に正確だ。
そして、それは静かにその音を響かせ、
こちらへと歩み寄った。
「はい。」
静かに頷いた真っ赤な目は、実に人形らしい虚ろな色で、
あの、私への嫌悪感を露にした貳号機の紫のそれとは全く異なるものだ。
まったくの同質のものであるというのに!
その黒髪を僅かな風に揺らす仕草は、
従順な黒猫のそれである。
「始めるぞ。」
だが、私の言葉に反応し顔をあげたその目は、
空っぽの赤の奥底に、
何か哀しいそれを微かに光らせていて。
さらさらと揺れる黒髪が、忌まわしい。
その黒のせいで際立つ、赤と、
その赤のせいで際立つ、彼と同じ色の黒い髪、が、
じわじわと月を侵食する、蝕のように、私を喰らい尽くしていく。
すべては、あの男の、毒、だ。
スイッチの入った黒猫の人形は、
ゆっくりと小さな口を開いて、
規則的な音を吐く。
「イエス、マスター。」
その目に宿る光を見てはいけない。
その目に宿る光など、あるはずがない。
あの、貳号機のそれですら、所詮、作り物、に他ならないのだ。
「くだらない・・・、」
私は静かに繰り返す。
けれど、
もしも、
彼の言うように、本当に、
この“人形”たちの中に、“命”を、見出して、しまった、ら。
「情などに流されて、自らを破滅へと導くなど、」
あっては、ならない。
だから私は、貳号機の目を見なかった。
あの燃えるような復讐心を揺らす、恐ろしい紫。
それに初めて気付いてしまった時の、恐ろしいほどの、戦慄。
その目に宿る光を見てはいけない。
その目に宿る光など、あるはずがない。
あっては、ならない・・・!
静かに息を吐き出せば、
水の匂いが鼻をつく。
此処に、空、は、存在しない。
在るのは、闇と、背徳の海、だ。
私はきつく、掌を握り込んだ。
たとえ、彼、が、此処にいなくとも、
私は、彼、を、超えてみせる。
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04.黒猫