「はあ、良いお湯だったー。」
濡れた髪をタオルで拭いながら、ゆっくりと息を吐く。
スリッパでぱたぱたと音を立てて階段を上がりながら、
ふと、あたたかい匂いに気付いて、バスローブの袖に鼻を寄せた。
ふんわりと触れた感触は、たいようのにおいと、それから、
、彼、の、においだ。
別に、ローブだけではない。
タオルも、
そしてこの家、何処でも、そうだ。
この、やわらかく、僕に触れる、このにおい。
それは、
これが彼の私物で、
そして此処は、彼の家なのだから、
至極、当然のことである。
けれど、
僕が、その空気の中に、居て、
そして其れに触れられるというのは、
多分、これが、嬉しい、ということなんだ。
二階の廊下へ足を進めながら、
胸元でしゃりしゃりと弾むロザリオに触れる。
今も、鮮明に思い出すのは、
あの、僕に向けられて、ゆるりと細められた碧。
僕は、一度ロザリオを、ぎゅうと握り締めて、足を進めた。
兄と僕が借りている部屋の、一つ手前の部屋。
そのドアの前に差し掛かると、
カイの寝室から話し声が聞こえた事に気付く。
この家の住人は、僕と、カイと、兄さんの、三人で。
そして、今、あいつの気配は無い。
ということは、
つまりこの話し相手は兄さんに他ならない。
僕は、浴室が空いた事を知らせようと、
でも話の邪魔にならないように、そうっと扉の取っ手を回して、そして、
「ここ、硬くなってるぜ。」
「・・・ふ、ぁ、」
びたり、と、
全身が固まる。
声と共に聞こえる軋むその音は、ベッドのスプリングの音に他ならない。
そしてその声は、
兄さんと、カイに他ならない、わ け で 、
「カイ、どうだ?」
「…ぃ、いです、・・・っ」
耳から通達される情報を脳内で処理する時間は1.02s。(実に正常な値である。)
だが、僕は無意識に処理機能を洗い直した。
(異常ありません異常ありません異常ありま)(そんな訳が無い!)
何処に欠陥があるのだろう幻聴まで聞こえてしまうなんて、
此処は何処だというのだろう此処は彼の家でそして彼の寝室で、
いったい、これは、・・・
「痛かったら言えよ。」
「・・・ぁ、もっと、強くして、くださ、・・・!」
ぶつり、と、
脳内で体液通達管か何かがぶち切れた音が聞こえた、気が、した。
「何してんのおおお!!!!」
叫びながらドアを蹴破り、
そのままの勢いで部屋の中に飛び込む。
そして僕の目に飛び込んできたのは、
ベッドの上のあられも無い姿の二人、
ではなく、
ベッドの上にうつ伏せたカイと、その背中に乗った兄さんの姿で、
(勿論、服もちゃんと着ている。)
僕の大声に驚いて、ずれてしまった眼鏡のまま、
こちらを見ている兄さんが、
きょとんとした顔で、口を開いた。
「・・・え、と、マッサージ、だけど…、」
おずおずと吐き出された兄の言葉に、
爆発的に上昇した体温が、波の様に引いていく。
僕は、
しずしずと部屋を通り抜け、
未だ困惑の表情を浮かべている兄さんの襟を、がっしりと掴んだ。
にっこりと笑えば、
訳がわからず、だがへらり、と笑い返す、兄。
僕は息を吸った。
「紛らわしい真似、しないでよぉー!」
ばっちーーーん。
「何、カイ、体凝ってたの?」
「ええ最近デスクワークが多かったので、特に肩がちょっと。」
苦笑気味のカイに、そうなんだーと頷いて、
(なんで俺だけ殴られるんだ、と紅葉模様の頬で、真面目に悩んでいる兄さんは放っておく。)
彼の両手をしっかり握って、笑顔で続ける。
「それなら僕に言ってくれたらよかったのに。
じっくり体の隅から奥まで解してあげるのにさ。」
「いえ、あの、遠慮します…、」
残念ながらカイに断られてしまった、
その瞬間、
耳の鼓膜のもっとずっと奥。
脳髄に触れてくる、ひんやりとした、指の、感触。
「・・・今のは?」
呆然と顔をあげた兄を振り向く。
「兄さんも感じた?」
ああ、と頷いた彼は、探るような視線を回しながら、
入ってくるそれを逃がさないように、耳を抑えた。
「これは、・・・、」
呟く兄さんの声が途切れて、
僕の意識も周りから切り離される、音。
未だ掴んでいる筈のカイの両手の感触すら分からない!
一体、此れは、なんだ?
伸びてきたその白い手は、真っ黒な意識の景色の中を箒星のように切り抜いて、
するりと僕の脳髄を撫でて、絡まって、侵入して。
美しい程の黒い闇を呼び集めながら、
その唇を僕へ寄せる。
き て
其れは、何処かで、聞いた、声。
でもそれが何処なのか思い出せない。
もう、ずっと前だったと、思うのだけれど、
(お前は、一体、誰、なの?)
闇の中で、すうと開かれたその両目は、
鮮やかに満ちていく満月のように、紅く、
その唇が、はっきりと、動く。
こ こ へ き て
・ ・ ・ た す け て 、 に い さ ん ・ ・ ・ 、
そうして、満月は、あっという間に欠けて縮まり、
闇に喰われて消えてしまった。
「どうしたんですか?」
動きの無い僕達を心配そうに見つめるカイの声が聞こえる。
そして僕の手の中にある彼の体温が戻ってきた。
「呼んでる。」
はっきりとそう言った兄さんの言葉に、
だがカイは理解出来ないのか、その目を瞬かせる。
「気配を送られた。」
補足されたようなそれに、
僕等の様子を理解したのか、カイが息を飲んだ音が聞こえた。
「僕があそこを逃げ出してから起動させられたんだろうね。もう一体いたなんて…。」
いつの間に作っていたのか見当もつかなかったけれど、
しかし、
“背徳の炎”に対するアラートレベルに脳神経を揺らぶられる痛み。
新しく起動させられた一体には、
僕や兄さんを基としているのだろうから、こちらの場所は感知出来るのだろう。
だが、恐らくこれは研究所から飛ばされたものだ。
あれほどの距離を挟んでも、
こんなにも僕等に影響を与える波動というのは・・・。
僕は頭を抑えながら、口を開いた。
「それにしても、ちょっと異常じゃない?この波動の強さ。
あの白髪頭、こいつを一体どう弄ったんだか・・・、」
思い出す白銀を靡かせる白衣の男と、
そして、脳裏に張り付いた、今僕等に“声”を飛ばしてきた、もう一人。
こんな事が機体に悪い影響を出さない訳が無いというのに、
それを省みない行動は、間違い無く、あの男の仕業なのだろう。
思わず共眉間に皺を寄せて顔を上げた僕は、
その眼鏡の奥で、せつない目をした兄さんに気付いて。
それは、
初めて僕が、兄さんに会った時と、おんなじ目。
また、僕や、兄さんと、おんなじ存在が、生まれてしまったと。
この人は本当に馬鹿だから、
こうやってまた自分を責めてしまうんだ。
こんなところまでカイに似なくたっていいじゃない・・・!
そして、そんな兄さんを、
カイが微かに眉を寄せて、僅かに影を乗せた碧で見つめる。
だけど、
顔をあげた兄さんの目は、
いつものように、真っ直ぐで曇りの無い蒼。
「…来い、って言ってるんだ。」
「恐らくも何も、十中八九、罠だろうけどね。」
軽く肩を竦めた僕に、兄さんは視線だけで頷いて、
でも、
とその唇で続ける。
「放っておく訳には、いかない。」
その静かに流された言葉に、
僕も、そしてカイも頷いた。
「警察機構の人間としては勿論ですが、
・・・私個人としても、見逃す事は出来ません。」
ぎゅぅ、と握られた兄さんの掌は、微かに震えていて、
それは自分への怒りであり、奴等への怒りであり、もう一人への、
、僕等の“弟”への、想いでも、あり。
「“あいつ”を、あそこから、出してみせる。」
静かに、
だけど真っ直ぐなその声に、
僕等は、迷う事無く、頷いた。
→next.
69.箒星:彗星。不吉の前触れ。