ぼんやりとした意識が、
浮き沈みの波を何度も何度も、行き来して。
次に目が覚めた時、
俺は、誰かが泣いている声を、聞いていた。
やはりぼんやりと光が触れる瞼は重かったが、
その声の色が切なくて、
なんとか、瞼をこじ開ける。
目の奥を刺す光は、微量だったにもかかわらず、痛みを覚える程で、
俺は一度瞼をきつく閉じて、遮光した。
そして、じんじんと微かに痛む目の奥の波が引いてから、
ゆっくりともう一度、瞼を押し開く。
その直後、
がこん、と足元から響いた音に、
辺りを包んでいた水が、吸い込まれていってしまった。
それと一緒に失われていく浮力に逆らえず、
俺は初めて加えられた重力に従ってバランスを崩す。
けれど、俺を包んでいた細い線や管が、網のように絡まっていたから、
別段、身体の位置が変わったわけではなかったけれど。
『羊水排出完了シましタ。』
水中とは違い、乾いたリアルな音で聞こえた機械音に、
俺は顔を上げる。
ようやく俺は、
俺を包む硝子の大きな管越しに、
誰かがこちらを見ている事に気づいた。
こちらを見上げる彼は、
白く長い綺麗な髪を下ろして、そこから虚ろな翠の眼を覗かせて、いて。
そして、硝子を垂れ流れていく羊水は、
まるで彼の涙のように、
音も無く、だけど止まる事なく流れ続ける。
あのひとがいないいないいない、
わたしはひとり。
わたしは、
ひとり。
泣かないで、
そう言おうとして、俺は、腕を伸ばした。
けれど。
ずるりと絡みついてくる真っ黒な闇。
伸ばした腕を絡めとり身体を足を頭を全てを、
捉え、締め上げ、ずるずると潜んでいた闇へと引き摺り込まれていく、感覚。
俺は必死にもがいて、足掻いて、
振り向くと其処には、
唾液を垂らしながら、今か今かと餌を待つ、
大きく顎を開いた、闇の籠。
はなせ、やめろ、
だって、あの人が、泣いているのに、
『パスワードを、入力シてくダさイ。』
再び響いた機械の声に、俺は顔をあげた。
泣いているあの人の顔は、
伏せてしまっているので、
長い白い髪が揺れているのしか分からなかった。
少し顔をあげた彼の緑の目は、
何かを迷うように、だけどそれを振り払うように伏せられて。
もう一度開かれたその、翠に、もう迷いは無かった。
けれどその意志の強い真っ直ぐな目は、
なんて、哀しい、翠、だろう。
「 “ GUILTY ” 」
彼の唇から滑りでたその一言で、
俺を捕らえていた黒い籠は、
その顎を嬉しそうに閉じた。
がちり、
心臓の鍵穴を回されたように、其の音は近くて。
俺は何故か、指一本、動かす事が出来なくなってしまった。
それは、
全身をぴたりと包む硬質の壁のような、
蝋の中にでも入れられて固められてしまったような、
感覚。
ただ俺は息を吸って意識を動かし、
入ってくる五感をただ感じるしか無い。
目の前の硝子が、ばくんと開いて、
あの翠を湛えた彼と向かい合う。
彼の白く長い髪は、
薄暗い照明の中で、淡く浮かび上がってとてもきれいだ。
その白の中に佇む翠が、
俺に向けられたまま、細く、歪んで。
彼が、腕を伸ばして、俺の髪に、触れる。
けれど、次の瞬間、
彼は弾かれたようにその手を振り払った。
俺の髪が羊水で濡れていたから、だけではないんだろう、
俺の向こうに、だれ、を、見ている、の ?
自身の無意識の行動に、
彼は呆然と、自分のその羊水が付着した手を見つめて、
舌打ちとともに、その掌を握り込んだ。
胸に響いてくるかなしい色は、
相も変わらず、じわじわと広がって。
泣かないで。
彼の頬は乾いていたけれど、
それでも、目の前の彼は、
、涙、も流せずに、泣いているんだ。
俺は、
それから目を背ける事も出来ずに、
そして、
彼の寂しさを和らげてあげることも出来ずに。
俺の唇が、開く。
「マスター、ご命令を。」
その翠が、軽く驚いたように開かれて、
けれどそれが自分のプログラム通りだと思い出したのか、
彼は、僅かに苦笑した。
規則的に響く高い電子音が、二つ。
「来たな・・・、」
静かに呟かれた彼の言葉は、
大きなモニタに映し出された、この研究所の入り口の映像に向けられて。
そしてそれに小さく映る、
三人一人+二体の姿。
「行くぞ、參号。」
そう言った彼が、白衣と、そして、その白銀を翻す。
それは水が跳ねる姿にも似ていた。
「はい。」
いつものように、滑り出した俺の声は、
(最近では、勝手に動く自分の身体に、少し慣れてきたようにも思う)
すぐにその姿を追いかけて、脚を動かし始めた。
長くは無い階段を少し早足で登っていく、彼の背中には、
けして少なくは無い、緊張の色が見える。
今まで足の踏み場の無かった部屋も、
大分片付けが進み、
とりあえずこの隠し階段へと続く通路の確保は出来た。
それを通り抜け、ドアを開けると、
丁度、彼の部下の研究員が駆け寄ってくるところで。
「博士。カイ=キスクと、壱号機、貳号機が、到着しました。」
彼が、静かに息をする。
「ああ、分かった。」
奥底で滾る其の翠は、
もう、後を振り向く事など、赦されないんだ。
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98.唾液