「ごめんな、パパとママもお仕事で、またしばらく家を離れなきゃならないんだ。」
聞き飽きたその言葉に、
だけど少年は、にこりと笑んで頷く。
「お手伝いさん達の言うこと、よく聞くのよ。」
少年は、
次いで口を開いた女性に対しても、
同様の笑顔を浮かべると、
はい、と返事をして、
けれど、
うさぎのぬいぐるみを抱えた腕に、ほんの少し力を入れてしまいながら、
ゆっくりと笑んだ。
「いってらっしゃい、パパ、ママ。」
その言葉を聞いて、安心した色を浮かべた両親は、
振り返る事なく、
笑顔を貼り付かせたままの少年を残して、
子供部屋の扉を、閉めた。
「しかたないよね、」
さらさらと揺れるカーテンが入り込む、広い子供部屋。
大きな積み木と、沢山の絵本と、四体のぬいぐるみ、ピースの散らばったパズル…。
部屋の隅にある大きな玩具箱に入りきらない玩具たちは、
両親が家を空けるたびに、
土産という名前で増え続けていく。
だが、最近では蓋の閉まらない玩具箱に、
少年が“本が欲しい”と言葉を溢すと、
両親は、勉強が好きなのは良い事だ、と喜んで了承した。
たった今、少年が床を埋める広い絨毯の上で、
ページを繰るその絵本も、
つい先日渡されたばかりの、ことばの練習帳で。
動物たちが彩るページに並んだ英字を、
小さな指でなぞりながら、
少年は、
単語を読み上げるのをぱたりとやめて、
ほんの少し、溜め息の混じる声で呟く。
「パパもママも、おしごとでいそがしいんだもん。」
ぽつりと落ちたその声は、
小さな子供一人には広過ぎるその部屋に、思いのほか響いて。
だが、そんなことには慣れてしまった彼は、
再びゆっくりとページを捲り始めた。
「……H、O、P、E、……“きぼう”……。」
描かれた文字を、ぽとぽとと溢して、
少年は、余りにも自分にとって現実味の無いその言葉に、
答えを探すかのように、
ぼんやりと顔をあげた。
「もしも、ぼくが、おとぎばなしにでてくるような、“まほうつかい”になれるなら、」
言いながら、
少年は、傍らに在るうさぎのぬいぐるみを、そっと撫でる。
その行動に、自身で苦笑しながら、
だが視線を、部屋に転がっている、他の三体のぬいぐるみたちへ、順々に向けて。
「きみたちと、おはなしできるように、するのにな。」
そう呟いた声は、窓から吹き込んだ風に、
すぐに掻き消されて、溶けてしまった。
ゆっくりと顔を上げる少年の、
その紫の瞳は、澱んで沈み、
何も映そうとはしていない。
そうして膝を抱えた少年にとって、ひろい、ひろいその部屋は、
けれども、其処こそが彼の、すべて、だった。
カーテンを揺らす風は、
自分の少しクセのある黒髪を、撫でてくれるけれど、
絵本を与えて、
そして自分に手を振ってすぐに背を向けてしまうあの手、達、は、
けして、
この頭を、撫でてくれないというのに。
「・・・せ、はかせ、博士。」
思いの外鼓膜を揺るがせたその音に目を開けると、
自分の腕と、自分の机。
そしてそこに散った自分の書類と、じんじんと痛む目頭に、
漸く自分が、眼鏡をかけたまま書類の上で、
居眠りをしていたのだという事に思い至った。
「またこんなところで寝て。風邪をひきますよ。」
少し怒ったように、
けれど穏やかに続けられたその声は、
呆れたような溜め息で締められ、
私の脇に、使い込んだティーカップを置いてくれる。
「ああ、すみません、ついうたた寝を…。」
やんわりと香るカモミールに、
それがハーブティーである事に気付きながら、
私は、
僅かに私を覗き込んだ、その人工物の金の眼が、
私が今見ていた、いつかの景色、のような気がする、夢、を、
私の奥底、を、
見透かされてしまうのでは無いかという心地に陥って、
恐怖にも似た想いを抱き、
反射的に身を引きながら、
わざと笑いを含ませて、彼、に言葉をぶつけた。
「心配してくれたんですか?」
彼、はからかわれる事を酷く嫌い、
すぐにむきになって否定してくるので、
やはりすぐに周りが見えなくなる、
のだけれど。
「いけ、ません、か…?」
少し閊えたその台詞は、
やはり何処か怒ったような色を残し、
けれど、それは拗ねた子供の視線、で。
私は、
たった今自分が抱いた、恐怖、が、
下らない想像であった事に今更気が付いて。
そして、この子、に、
勝手にそれを押し付けた事に、気が付いて。
「いいえ、」
言いながら、苦笑して。
私はそっと、謝罪の念を込めて、ゆるりとその頬を撫でた。
「有り難う、肆号。」
銀の髪から覗く金のそれは、
こっそりとこちらへ視線を戻すと、
拗ねたように尖らせていた唇を、ほんの少し緩めて、
ちいさな子供のように、
少しだけ、微笑んだ。
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13,こわれたこころ