「お帰り、兄さん。」
「おう。」
リビングから顔を覗かせた弟に返事をして、
買い物袋を手渡す。
ありがと、と答えながらも、
明らかに機嫌の悪い弟に訝しみながら、
俺は、髪をあげていたカチューシャを外して、息を吐いた。
「随分遅かったね、そんなにたくさん頼んで無かったのに。」
紙袋をあけながら、小さな棘を含ませたその声に、
ああ、心配していたのか、と妙な納得をして、
(この弟は本当に心配性で意地っ張りである。)
俺は、軽く笑って手を振った。
「いやーそれがな、買い物帰りに近所のガキ共に捕まっちまってなー。
少しのつもりで付き合ってやってたら、こんな時間に…」
「要するに道草くってたんだね。」
「すいません。」
素直に謝った俺に、
弟は短く溜め息を吐いて、
(けれど、安心したんだというのは分かった、)
買ってきた荷物を抱えながら、
台所へ向かう。
「ったくもー、ガキっぽいっていうか、ガキそのものっていうか。」
夕飯の準備遅れちゃうじゃん、と溢す弟に苦笑しながら、
俺は、ポストから持ってきた新聞を広げながら声を飛ばした。
「あー悪かったって。そう怒…、」
そう口を動かしていた俺の目に飛び込んできたのは、
見慣れた男の顔写真と、
その脇に掲げられた大きな見出し。
俺が言葉を切った事を不思議に思ったのか、
弟が、こちらの手元を覗き込む。
「どうかした?」
どっかで特売でもやってたの?なんて暢気な事を言う弟に、
思わず俺は、リビングの机の上に、
その記事を叩きつけるように広げた。
『刑務所内でアンドロイド研究所長、自殺。』
大きく踊るその文字脇に載せられた、
あの白銀の髪を流した男の白黒の写真を、
弟が食い入るように、見つめながら呆然と呟く。
「、自、殺、?あいつが…?!」
「“刑務所へ送還後、看守が目を離したすきに牢の中で…”か。」
細かい文字の欄を読み上げた俺に、
だが弟も、勿論俺自身も、
そんなもので納得できるはずもない。
「何言ってんのさ!あいつがそんなことするはずないよ!!」
叫びながら机を叩いた彼に、俺も迷わず頷いた。
瞬間。
高音で脳神経を揺らす、
聞き慣れてしまった、いつもの警報音。
そして、その気配。
同様のそれを感じたであろう弟と同時に、
二階からの階段を振り返ると、
其処には、想像通りの、その男の姿。
「坊やは、何処だ。」
静かに、だが何処か急いているそれに気付くよりも早く、
弟がこれでもかというように眉根を寄せて、口を開いた。
「…挨拶も無しに開口一番それ?」
「よう、ソル。」
そんないつもの挨拶に、こちらへと歩み寄ってくるソルだったが、
唐突にその足が止まる。
「ソル、また入り口間違えてる。」
ソルの背後から聞こえた静かなそれに、
俺はもう一人の弟がソルのジャケットを引いていたことに気が付いた。
「窓は、玄関じゃない。」
先日の初対面以来の顔合わせだからか、未だによく解っていない様子の弟に、
ソルも僅かに眉を動かしたのだが、
(あれは恐らく、邪険にも扱えないので困ってる、ようだ。)
(隣で堪らずに二郎が噴出したのが聞こえた。)
とりあえず、ぼんやりと視線を泳がせている弟に軽く手を振る。
「起きたか?」
俺の言葉に、こっくりと頷いた彼だったが、
寝惚けていたその赤い眼が、
ふと、こちらの空気の色でも拾ったように、
ぴたりと俺へと向けられた。
「…兄さん、何かあったのか?」
「あぁ、…お前も見てみな。」
言って新聞を手渡すと、
その視線が、ふわふわと紙面を泳いで。
ひゅ、と息を飲む音が聞こえるのと、
その一対の紅玉が凍りつくのは、
同時だった。
「兄さ、…あいつ、」
微かに震える手が紙面を揺らし、
恐る恐る、俺へと視線が向けられて。
「、死ん、だ、のか、?」
一つ一つの音を噛み締めるように、
落とされたその声は、
あの研究員が死んだという事を、認めたくない、
しかし懼れていた事が本当になってしまったとでもいうような、
そんな音を含んでいて、
俺も、そして脇に居た弟も、
僅かに視線を伏せるしかない。
俺達のそんな様子に、余計に確信したのか、
その眼が力無く、ぱたりと床に落ちて…、そして、
ぱ、と玄関へ続く廊下へと向けられた。
「ただいま。」
そこから少し疲れた顔を覗かせたのは、勿論カイで。
リビングに足を踏み入れると、
彼、が居た事に気付いたらしく、
何度か大きく瞬いて、口を開くのが見える。
「ソル。」
「…よう。」
相も変わらず無愛想な返事ではあったが、
ああ、でも、
ほんの少し緩められたカイの表情から、
疲れた色がもう既に見えなくなってしまっているのがわかったから、
俺は、やっぱり安心したんだけれど、
それと同時に二郎の気配が、
氷点下を軽く超えて落ちていくのがわかってしまって、
俺は、
ひとつ、大きく咳払いをすると、
ばらばらと集まった、全員の視線を見返した。
「あー…とりあえず、全員座って話そうぜ。
バタバタしてこんがらがっちまった。」
そう言ってテーブルへと促せば、
皆一様に頷いてくれたので、
(ちょっとホッとした。)
俺は五人分の飲み物の準備をしようと、台所へ向かった。
「つまり、新聞に載ってるこの情報は、デマってこと?」
机の中心に広げられた紙面を、綺麗な爪で弾きながら言った弟の言葉に、
向かいに座っていたカイが、はっきりと頷く。
「警察機構内部でそのことを知っているのは、極一部の人間ですが。…彼が自殺したというのは偽りです。」
「じゃあ、他の誰かに?」
「…いえ。」
更に言葉を返す弟に、カイはゆっくりと首を振って、
少し困惑した表情のまま、
俺達を見る。
「分からないんです。」
「、分からない、?」
訳が解らないといった顔で、聞き返す弟に、
俺も、余り表情を動かさない、ソルや、もう一人の弟さえもが、
思わず眉を寄せる。
カイは、俺達の反応が尤もだ、とでもいうように、
だが彼自身が、一番、その事実に困惑しているのだと、
溜め息を一つ吐いてから、
はっきりと、告げた。
「いなくなっていたんです。法廷での裁判を翌日に控えた夜に、突然。」
「な、っ…!?」
言葉を失くした俺達に、
だが、カイは淡々と説明を続ける。
「恐らく、何らかの組織が絡んでいるのだと思います。
彼が持っている知識は、多くの組織が欲しがるものでしょうから。…そして、」
実に、高度な人工知能生命体。
その外観だけではなく、戦闘力、技術力、思考レベル、全てを意のままに出来る、知識。
腕が千切れれば、それを換え、
足が壊れれば、修理する。
護衛、牽制、暗殺、戦争。
鋭利で便利な刃など、
使い道は幾らでもあるのだ。
まるで、ギア、のように。
静かに、
音も立てずに燃やし続ける烈火をその碧に見せながら、
カイがゆっくりと続ける。
「それが悪用される可能性は、けして低くないでしょうね。」
今のところ、有力な情報は掴めていません。
そう言って締められたカイの言葉に、
二郎が、…そう、と小さく頷いて俯いた。
その隣の弟も、やはり視線を落としていたけれど、
その眼は、
あの研究員が、生きている、という事実に、
少なからず、安堵しているように見えた。
(そしてそれは、彼よりは小さくとも、俺も同じ思いであった、ので)
ふと思い出すのは、
もう一人の、白衣を翻す、あの男。
真の研究長であった博士を、警察が見逃しているとも思えない。
「あのよ、カイ。」
沈黙を破った俺の言葉に、
面々が顔をあげて、こちらを見る。
カイが視線で先を促したのに頷いて、
俺は少しだけ躊躇いながら、言葉を紡いだ。
「博士についての事、何か分かったか?」
「それが…、」
険しい表情を見せるカイに、
思わず息を飲んだが、
カイはやはり困惑した様子で、再び口を開く。
「あの男の事を報告しようとしても、“当方は関わらなくて良い”の一点張りで…。」
「それって、…縁故関係者、って事か?」
俺が継いだ言葉に、はっきりと頷いて、
カイは鞄から何枚かの書類を、机に広げた。
「そこで、彼のことをいろいろと調べさせてもらったんですよ。」
書類には、あの見慣れた博士の写真と、
彼に関するデータが、事細かに纏められている。
(相当に耳の良い、部下が居るんだろう、)
カイは、
そのデータの何箇所かを指し示しながら、口を開いた。
「どうやら、国連上層部と深い繋がりのある家系の者らしく、下手に手を出せないようなのです。」
「成程。だから、兄さんや僕を紛失させたにも関わらず軽い処分で済んだ訳か…。」
納得したように呟いた弟に、俺も相槌を打つように頷くと、
眺めていた書類を机に戻したソルが、
静かに声を落とす。
「この野郎については、俺の方も調べさせてもらった。」
珍しく自分の動向を明らかにするソルに、
少なからず驚きながら、カイが先を促すと、
伏せられていたソルの鋭い視線が、俺達を走った。
「奴等の研究、お前等の身体構造が気になってたんでな。」
ソル、は、
一度、合成獣の残骸を見た、と言っていた。
恐らく、その際に気付いてしまったんだろう。
合成獣とは違うにしろ、同じ場所で造られた俺達の構造が、
ギアの其れに酷似している、と。
だが、
二郎が思い切り身を退きながら、机を殴る。
「僕等のカラダが…ッ?!ちょっとやめてよ気色悪いッ!!!」
「兄さん…。」
呆然と宥める三郎を他所に、
鳥肌まで立てている二郎へと、僅かに頬を引き攣らせたソルは、
げんなりと溜め息を混じらせながら、続けた。
「で、だ。足を調べていくうちに、奴の居所を突き止めた。」
「ほんとか?!」
思わず席を立とうとした俺に頷いて、
だが、
少し難しい色を見せるその眼は、
博士の無事やそんな事が秘められている様子では、なく…、
末の弟が僅かに首を捻ると、
それに促されるように、ソルはゆっくりと、言葉を流す。
「そこで、新しい、黒い坊やに会った。」
今度こそ、
全員が言葉を忘れて、
ああ、息をするのすらも忘れていたのかもしれない。
ただ呆然と、ソルを見ていた。
參号機、である三郎が、この家に来てから、未だ一月も経ってはいない。
それなのに、
「本当なの、それ!!」
「ああ。もう用が済んだ後だったから、適当に撒いてきたんだが、…四人目だろうな。」
席を立って睨みつける弟に、
だがしっかりと視線を返しながら言ったソルの言葉は、揺ぎ無い。
“四人目”というその言葉に、
、そんな…、と小さく溢しながら、弟は力無く椅子に戻った。
研究所から追放された博士が、
何処かにある自分のラボへと移ったらしい、というのは、
研究員同士が噂していたのを、
所内に居た頃に、三郎が聞いたようだったから、
其処で密かに、新たな一体の製作を始めていたに違いない。
(博士の私宅ならば、設備も整っていて当然だ。)
あの強制捜査のとき、
何故、追放された彼が危険を冒してまで、所内に忍び込んでいたのか。
俺達が侵入したのを、予め予測するなど不可能だし、
かといって、偶然だとしても、彼の目的は何なのか、
今まで疑問に思っていたの、だが。
…恐らくそれは、
所内にあった、俺たちのデータ、
若しくは、
マザーデータを盗み出す為。
「場所は?」
静かに、
だが、やはり真っ直ぐに沈黙を斬ったその声に、
ソルがゆっくりと視線を向ける。
「知ってどうする。」
「、彼には、」
僅かな湯気をくゆらせる、一向に減っていない紅茶カップを見つめながら、
ああ、恐らくとも、
“俺達”を一番近くで見てきてくれた、彼の眼、には、
今、色々な辛い絵、が映されているに違いない。
カイは、机の上に置いた自身の手を、握り込みながら続ける。
「言いたいことも、聞きたいことも、たくさんあるからな。」
その真っ直ぐな、音、を見ていて。
ややあってソルは、
小さく折り畳まれたメモを、カイへと放り投げた。
広げられた紙に書かれているのは、
見慣れない、何処かの、住所。
「これは…、」
確認するように問えば、
だがソルは溜め息混じりに、椅子へと背中を預ける。
自分が教えなくとも、
結局彼が余計な危険を冒してまで、
博士への足取りを掴もうとすることを、此の男は、知っている。
そして、
「後のことは、知らねぇぞ。」
ぶっきらぼうに言われたその言葉に、
カイはもう一度確認するように、手元のメモを見て、
多分、カイの隣に座っている俺からしか、その内容は見えなかったんだろうけれど、
ソルが、自分で調査する為に、
わざわざ目的地の住所を、メモしてくる、筈など、…無い。
カイの碧が、ゆるりと笑んで、
そのくちびるが、柔らかく言葉を紡ぐ。
「有り難う。」
その、あたたかな音、に、
ソルが、がしがしと頭を掻いたのと、
二郎の空気が、再び氷点下を切るのとは、
ほぼ、同時だったのだけれど…。
→next.
37,くちびる