「おはよう、肆号。気分は如何だい?」
そう言って緩められた紫が、
私が此の世界で見た、初めての、もの、でした。
私が、生まれて未だ、少ししか経っていなかったから、
広い洋館に独りで暮らしていた、
紫を宿したその人、は、
私をまるで子供のように、いつもこの髪を撫でて、笑むのだ。
私は、彼が造った“作り物”だったけれど、
彼は、私に“命令”をしない。
ただ彼は、
私に珈琲の淹れ方を教え、
家事を教え、
(けれど、彼よりも私の方が断然上手かった。)
暇な時間には、本を読むと良いと、膨大な量の書庫を開けてくれ、
自分が今しているのは、生物の研究で、
それが医学の役にでも立てばいい、と、話した。
けれど、
こんな広い広い家に、独りで寂しくは無いのかと聞くと、
彼はただ、笑って私の頭を撫でる。
だけど私は、
いつも窓の外、よりも遠くをぼんやりと見ている、彼の、切ない紫のその目、を知っている。
そして、私は、
彼が、どんな人達、を、思い描いているのか、は、知らない。
それでも。
護衛型アンドロイドとして作成されたからなのかもわからない。
私の、生きる、目的は、
生まれてきた、意味、は、
彼を、護る、為なのだと、
私は、本能的に、知っている。
例え、
もしも其れが、彼に因って意図的にプログラミングされたものだった、としても、
其れだけが、
揺ぎ無い、
私にとっての、真実、なのだから。
かつ、かつ、と止む事の無い柱時計の秒針さえ、
ふわふわと聞こえる。
ともすれば、かくんと落ちてしまいそうな自分の頭を必死で振って、
私は封雷剣を、抱え直した。
「眠いならお休み、肆号。」
ほんの少し苦笑めいたものを含んだその音に、は、として、
私が慌てて顔を上げると、
デスクから振り返った、博士、の少し緩んだ視線とぶつかって。
(ああ、また笑われてしまった、)
「いえ。また何時、あの男のような輩が襲ってくるか、分からないのですから。」
ハッキリと言い放ち、私は剣を抱く腕に力を入れて、
座っていたソファで、背を正した。
よりによって、
昨夜この家に侵入してきた男は、
博士が巡らせた警報網も、殆ど潜り抜ける程に腕の立つ人間だった。
研究室で何かを探していた所を発見したが、
脳内で鳴り響く、普段と違う種のアラートに、
私は、奴が“背徳の炎”だと、分かった。
“それ”だけは深追い出来ないようにプログラムされていたせいで、
男にはまんまと逃げられてしまった、が、
部屋の物が、何一つ盗まれていなかった事だけが、まだ救いだ。
しかし、今度は、違う人間かもしれない。
もしかしたら、この家の物ではなく、
博士自身に危害を加えようとするような、人間だったとしたら?
私は緊張感の無さ過ぎる、博士を少し睨んだ。
そんな私に、やはり苦笑しながら、
彼は、席を立ってこちらへ足を進めながら、諭すように言葉を流す。
「そうは言っても、ろくに休息をとっていないような状態では、満足に戦うことは出来ないでしょう。」
「そう、ですけど、」
言葉に詰まった私の、
その目の前で足を止めた博士は、
いつものように、くしゃくしゃと私の頭を掻き回すんだ。
そうして、
私を見下ろすその眼は、
ほんの少し、困ったような、
ああ、けれどそれが、
私が眠らない事で私が故障か何かするんじゃないかという、
そのような心配をしてくれているのだという事も、
私は知ってしまっている、から。
そして博士は、私がその眼に気付いてしまっていて、
それに逆らえないということも、知っているんだ。
「分かりました、…けど、」
「けど?」
聞き返した彼の、ネクタイを引いて、
私は小さく、呟いた。
(こんな姿こそが、駄々をこねたような子供のようなのだと、知っては、いるけれど。)
「ここで、寝ます。」
彼は、
少し瞬いてから、くつくつと喉を揺らすと、
私と目線を合わせるように屈んで、
笑って言った。
「頑固な子ですねぇ。」
私は、
“子供”では、彼を護れない事を知っているし、
けれど実際は、彼が私を護ってくれていることも、知っている。
だけど、それでも、
“子供”の顔をしている時、彼が私を甘やかしてくれることも、知っている、ので。
そして勿論、その事を彼は自分でも気付いているんだ。
少しだけ、騙されて、ください。
、おいで、と、
そう言って、私を呼んでくれる此の腕を、護る為ならば、
私は何でも、差し出そう。
、そう、思うのだ、けれど…。
「では、打ち合わせ通りに、A地点B地点から、
それぞれ、二手に別れて調査します。…宜しいですか?」
ベルナルドが調べてくれた、
屋敷の見取り図の二点を指して問えば、
私と同様に、動き易い私服に身を包んだ三人が、頷く。
「何かあったら、メダルで連絡でしょ?任せて。」
「ああ。終わったら各自、ここに集合な。」
そうした兄である二人の言葉に、
最後にしっかりと黒髪を揺らして、
末の(では無くなってしまった、三番目の、)弟にあたる彼が、頷いて。
私は、森の木々の隙間から顔を覗かせる、
洋館の屋根を仰ぎながら、
短く息を吸った。
例えば、
一人は、自分と同じ想いを抱く存在が増える事を哀しみ、
一人は、自分が抱いた想いを恨み、憎み、
一人は、自分の想いを受け入れた上で、周りの哀しみを嘆いて。
そんな彼等が、
“新たな存在”を認めるということは、
一体、どんな想いなのだろう。
私には、到底解ることなど出来ない、重い重い、想い、だ。
だから、
私は、私に、出来る事をしよう。
彼等を振り向けば、
真っ直ぐに洋館へ、その先へ向けられた、その視線。
私は、
短く祈りを捧げてから、足を洋館へと、向けた。
「行きましょう。」
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86,おいで