それは、聞き慣れない音だった。
とんとんと響く軽快な、
だがいつもより少し遅れた、包丁のそれでもない。
くつくつと沸騰し始めた鍋のそれとも違う。
喉の奥から零れてしまった息は、
その憂鬱な色を隠し切れずに、シンクに垂れて。
私は、信じられない思いで、
隣に立つ、包丁の手を止めた彼を見た。
いつもは明るく笑い返してくれる蒼い目も、
今は、まな板に落とされているようで、
陰る横顔にかかった金の髪に隠されて、見る事は出来ない。
「何か、あったんですか?」
静かにそう問えば、
ゆるりと顔を上げた彼は、ほんの少し苦笑して、
やはり溜め息を溢した。
「どうしよう、カイ…。」
そして、
彼はしばし言葉を選ぶように、迷うように、視線を巡らせたあと、
ぽたぽたと、声を落とす。
「俺、あいつに嫌われてんのかも、…しれない。」
Project of black android.
The fourth story = ISUKA black.
Black HOPE birds.
after story.
〜邂逅W〜
「一杯いかがですか?」
そう声を掛けてきたのは、
ここの家主である、そして、我々のオリジナルである、人間だった。
私が“カイ=キスク”というその名のデータを弾き出している間に、
彼は私が顔を上げた事に気付いて、
一歩、部屋へとその足を踏み入れてくる。
そして、
昨日まで使われていなかったらしい、この客室の扉を静かに閉めて、
こちらに向き直った彼の手には、
焼き菓子と花の香りのするティーポット。
私の返事を待ってその足を止めている事に気付いて、
私が、小さく、いただきます、と声を発すると、
彼はゆるりと笑んで、
私が掛けていたテーブルセットへと、足を進める。
上品なカップが二つ並び、
ふんわりと肌に触れる湯気は、微かに甘い。
カップに紅茶を注ぎながらも、
空いている席へ掛けようとしない彼の様子を、
私は読みかけの本越しに窺うようにしながら、口を開いた。
「お掛けになったら、どうなんです?」
彼が、ぱたぱたと瞬いて私を見るので、
その少し驚いたような色の瞳に、
(ああ、きっと彼は嘘の吐けない人なのだろう)、
私は、話があるのでしょう、と続けて言った。
彼が静かに席に座ったのと同時に、
読みかけのページに栞を挟み、私は本を閉じる。
「いただきます。」
そう言って、口に含んだ紅茶は、
冷えていた指先に熱を与え、喉を通って体内を侵蝕していく。
だが、
鼻腔を薄く湿らせる湯気と花の香りは、
生活感の未だ無いこの部屋を包み込み、
カップの水面をぐるぐると泳いでいる彼の視線を霞ませた。
私は、
今朝方、目の前の人間と、全く同じ造型の人形が、
やはり同じように、
僅かに眉根を寄せて視線を落とす仕草をしていた事を思い出す。
「、彼、のことですか?」
壱号機、若しくはプロトタイプ、と、
そう呼ぶ事を、この目の前にいる人間は嫌がるのだろうと思い、
私はゆっくり“かれ”と喉を動かした。
だが、
ぎくりと動いた肩に反応して、
柔らかそうな金の後ろ髪が、正直にはらりと前へ零れる。
私は、こっそりと溜め息を吐いた。
ぐるぐると泳いでいたその碧の色が、
赤い湖面で遭難しているように、巡っている。
大方、初号機があの沈んだ表情でいた事を心配でもしたのだろう、この人間は。
初号機が彼に私との話を事細かに愚痴ったのかも解らない。
そのような事をしそうには見えなかった、が。
確実性の高い確率計算をするには、まだ初号機の思考経緯のデータが無さ過ぎる。
(実に御節介な事である、)
あの初号機もそうだった。
夕飯だ、朝食だ、と部屋から出ようとしない私を連れ出そうとしたり。
私が、もう構うなと突っ撥ねると、
少し陰った目を隠して、笑って、この部屋の扉を閉めるその仕草。
苛々、する。
どいつもこいつも、“自身”の事をわかっているのか。
自分のデータ元である人間の側で、
自分と同じ顔をした人形に囲まれて、
平気な顔をしていろ、と、そう言いたいのか?
けしてグラスアイでは造る事の出来無いであろう、
鮮やかな碧色をこちらへ向けた彼が、
ああそれにすら心臓を掻き毟りたい衝動に駆られて。
それでもやはり、何と言っていいかわからない様子で、それでも言葉を垂らす。
「…だって、たった、四人の兄弟、なのでしょう?」
その言葉に、
私は無礼ながら荒々しくカップをソーサーに戻した。
思いの外響いた陶器の音に、
あの碧が一瞬固まったのが見えてしまって。
苛々と燻ぶる喉の奥の塊が、
じくじくと化膿しながら、私を蝕み食い尽くしそして、
「正気ですか?」
ざくりと突き刺した言葉は、
確かに私の喉から発された音であり、
ああ、苛々するんだ。
そのきれいな、め、が、
私とも初号機とも貳号機とも參号機のそれとも違う、
博士と同じ、
光を湛えた、きちんと息をしている其の、め、が、
けれど、
私と同じ“つくりもの”のはずなのに、
うっすらとその光を持っている、あの初号機の、め、が、
私を見ている・・・!
「私達は“造り物”なんですよ?!…私は、」
ふと肌に触れていた甘やかな花の香りを思い出して、
喉が引き攣るような感覚を覚えながら、
私は弾かれたように席を立っていた。
これ以上このめに映っていてはならない。
なんときたならしい、 にんぎょう 、の、 おろかしさ 。
「私は、“ままごとあそび”をする為に、此処に居るのではありません!!」
言い捨てて早足で部屋を横切り、
後ろ手に扉を閉める。
荒い息を整えながら、
足に触れた何かに視線を向けると、
今朝の朝食だったらしい食事が、
きちんと、トレイに盛り付けられて、いて。
私の足がぶつかって、ほんの少し零れてしまった、
もう冷めてしまっているであろうスープに、
喉の奥が、
ひどくひどく、ひどく、
痛んで。
わたしはなにをしているわたしはなにをしているわたしは・・・!
私は堪らない想いで、
誰もいない廊下を駆け出していた。
、あいつは、望んでここに来た訳じゃ、ねぇからな、
朝食の香る台所で、
そう言って少し切なそうに笑った、
はじめさんを思い出す。
ばたん、と。
こちらのカップが揺れるほどの音で閉められた扉と、
次いで遠退いていってしまった足音が消えて、更に暫し。
私は吐く事も忘れていた息を盛大に肺から吐き出すと、
ずるずるとテーブルに崩れ落ちた。
ごつりと思いの外強く当たってしまった額をさすりながら、
一口しか飲んで貰えなかったティーカップへ、
今一度視線を向ける。
「…馬鹿か、私は、…。」
状況を更に悪化させるような事をして、どうするというのか。
(そもそも私は、一体何をしようとしていたのだろう。)
まだ見慣れない、銀の髪から、
金の瞳を突き刺してくる、彼に、
私はただ、
他の彼等のように、笑顔、を 。
(其れがどんなに御節介な事であり、彼にとって迷惑な事であるということも、
何処かで気付いていたというのに…!)
閉じた瞼に触れるのは、
冷たいテーブルの温度と、
冷めてしまった紅茶の香りと、
取り返しのつかないことをした自分の情けなさ、と。
再度、私が盛大な溜め息を吐き出すと、
それに答えるかのように、
小さく、部屋の扉を開く音が聞こえた。
「、カイ?」
少し驚いたように響いたその声に顔を上げると、
キョロキョロと部屋を見回しながら、
その栗色の髪を揺らして、こちらへと足を進めてくるのは、
すっかりこの家にも馴染んでくれた、住人の一人だった。
どうやら、
先程の扉を閉める音が響いたのか、
(もしかしたら、最後に彼が言い捨てていった言葉まで聞こえたのかもわからない。)
さっき、すごい音がしたからさ。
こちらへ向き直りながらそう言った彼に、
私は苦笑交じりに、空いてしまった席を勧めた。
「どうしたの?あの野郎に変な事でもされちゃった?」
僕でよければ上から下まで余す所無く、慰めてあげるよ?
綺麗な紫の瞳を、煌かせてそう言ってくれる彼に、
丁重に断りの意と、“あの野郎”は来訪していない事を告げて、
冷えたカップを傾ける。
残ー念、と、
いつものように頬を膨らませる彼だったが、
ふと息を吸って、
こちらの落ちた視線を拾うように、屈んで、
私を見る。
「なにか、あった、?」
彼が、真剣な色をした目で私を覗き込んで、
その柔らかな亜麻色の髪を、僅かに揺らして。
私は、
彼にまで心配をかけてしまったのだという罪悪感に、
息が詰まって、
けれど、彼の真っ直ぐに私を見るそのめに、
それも何だか馬鹿馬鹿しくなってしまって、
私は、力無く、笑いを溢した。
「余計な事を、してしまい、ました…、」
その一言で、
目の前に座る頭の良い彼は、
昨日、新たな住人になったばかりの彼に、宛がったこの部屋で、
当の彼の姿は無く、
どうして私が一人で、
殆ど手の付けられていない2人分のティーカップの前に居るのか。
そして先程の大きな扉の音はなんだったのか。
大方の察しはついてしまったようで…。
彼が、軽い溜め息と共に、
ひょいとその足を組み直して、天井を仰ぐ。
「…なんでこんなとこばっか、似るのさ…。」
呟かれたその言葉の意味が分からずに、
視線で聞き返すと、
だが彼は、…なんでもない、と続けた。
「そんな事よりさ、そろそろ昼ご飯作らないと。」
手伝って、と私の手を掴んで、席を立たせる彼に、
私は少し慌てて口を開く。
「で、でも彼が、」
「いーの。」
はっきりと言い放った彼は、くるりと振り向いて、
思わず言葉を失った私を見ると、
可笑しそうに、笑うのだ。
「ただの、兄弟喧嘩なんだから。」
大丈夫、
そう続けられた言葉に、
私は何処か、妙な納得をしてしまって、
本当に、
自分は御節介な真似をしたのだ、と、
そして、少し、彼等が羨ましいとさえ思いながら、
やはり僅かに、
苦笑した。
〜05,11,09
29,痛いよ